エピローグ10 ―――― 最終章 完

「はぁ、なんとか間に合ったぁ」

 駆けこんじゃいけないのは知っているけど、間に合いそうだったのでついしてしまった。

 動き出した電車の中で静かに息を吐き、空いている席に座る。

 いつもならこの時間は混雑しているのに、珍しい。

「うん、特売にもこれなら」

 時間を確かめて安堵する。

 限られたお給料で生活をするには、特売品が重要になる。

 お店の外で偶然会ったうてなさんと、つい話し込んでしまったけど、なんとか大丈夫そうで安心した。

「今度、か。楽しみ」

 一緒にお酒を飲めるお友達は少ないので、とてもありがたいお誘いだった。

 久しぶりにたくさん飲みたいな、なんて想像して笑みがこぼれてしまう。

 普段は節約を心掛けているけど、お友達と一緒に飲むときくらいは豪遊してもいいはずだ。

「……本当に、ありがたいですね」

 窓の外を眺めながら、変わらない毎日にホッとする。

 一時はどうなるかと思って不安になったけど、意外となんとかなるものだ。

 それはもちろん、私自身がどうこうというより、助けてくれる人のおかげ。

 うてなさんも、その一人だ。

「結局、思い出せないままだけど……」

 私が自分について覚えているのは、ごく僅か。

 ほんの数年分の記憶しかなく、それ以前の自分というものは今でもわからない。

 自分が本当はどんな人間で、どんな風に暮らしていたのか。

 本当の名前すら、わからない。

 正確に言えば、名前はある。

 もっと正確に言えば、身分を証明するものに記載された名前は、ある。

 でも私にはそれが、本当に自分の名前だと確証を持てない。

 書類にそう書かれて、その名前で暮らしている部屋があったのだから、信じるも信じないも本当はないはずなんだけど。

 だけどどうしても、違うような気がしていた。

 明らかにこの国の人とは違う容姿だから、というのも理由の一つだけど。

 自分でもわからないなにかが、ずっとズレている気がしている。

 幸いにも、生活には困らなかった。

 記憶はないはずなのに、自分がどう暮らせばいいのかはなぜかわかった。

 どこに住んでいて、どこで働いているのか。

 ただ、親しい友人や家族については、真っ新だった。

 今でこそ仕事場などで知り合いの人ができて、気にかけてくれる人もいるけれど。

 夜、一人で部屋にいると、凄く寂しいと感じる瞬間がある。

 そんなときは静かに泣いたり、ちょっとだけ奮発して買い置きしてある日本酒を飲んだりして、寂しさを抱いたまま眠る。

 なんて話をうてなさんにしたら、飲みに連れ出してくれたりもした。

 不思議な縁だけど、うてなさんは私によくしてくれる。

 とてもありがたいし、同年代で仲良く話せるのは楽しくて嬉しい。

「あの人も……」

 そう考えて頭に浮かぶのは、もう一人の女性だ。

 とても綺麗な金色の髪を持つその女性は、本当にときどき、お店に来てくれる。

 何度か声をかけられて、ちょっとだけ話したこともあった。

 本当にちょっとしか話していないのに、なぜかとても印象的で……。

 綺麗だから、というだけじゃない。

 あの人はなんだかいつも、悲しそうな笑顔で話すから。

 どうして、なんてお客様に訊くわけにもいかないので、理由はわからないけど。

「きっと、いろいろあるんだろうな……」

 あの女性だけじゃなくて、みんなそれぞれ、なにかを抱えているはずだ。

 悲しかったり、泣きたくなったり、疲れてふらついてしまうこともあるだろうけど、それでもみんな、頑張っている。

 だから私も、寂しいくらいで落ち込んではいられない。

「明日も頑張ろ」

 そう思い、晴れやかな気持ちで顔を上げる。

「……って、え? あれ、この駅……あー、待って、降ります降ります!」

 駆け込んだときと同じくらいの勢いで電車から飛び出し、ホームで胸を撫でおろす。

「……また、やっちゃった」

 これで何度目になるかわからない。

「特売、もうダメだなぁ」

 そろそろ到着する時間だったのに、ここは全く違う駅だ。

 むしろ倍に遠ざかってしまった。

「今晩はおかず抜き、かなぁ」

 ため息を吐きながら、反対側の電車を待つ。

 なぜかはわからないけど、ときどき乗る電車を間違えてしまうことがある。

 そして今日もまた、帰る方向とは逆の電車に乗ってしまったのだ。

 普通なら間違えないはずなのに、この癖は治らない。

 まるで無意識にこっち方面に行きたがっているみたいに。

 そんなこと、あるわけないんだけど……。

 もしかしたらなんて思うこともあるけど、まだ確かめに行ったことはない。

 忘れたなにかを思い出せるかもしれないのに、なぜか躊躇してしまう。

「今度、相談してみようかな」

 うてなさんなら、いいアドバイスをしてくれるかもしれない。

 そんなことを考えている間に、電車がやってきた。

 降りる人の邪魔にならないよう、少し横にズレて待つ。

「――きゃっ」

 そうしていたはずなのに、電車から飛び出してきた人とぶつかってしまった。

「――っと、す、すみません!」

「あ、い、いえ、私こそすみませんでした」

 すぐに謝ってきたその男性に、私も頭を下げる。

「あのー、お怪我とかは……あの?」

 お互い転んだりはしていないけど、そこは確認しておくべきだと思った。

 思ったんだけど、男性の様子は少し変だ。

 きょろきょろとあたりを見回し、誰かを探しているみたいだけど。

「……えーっと、大丈夫ですか?」

 別の意味で心配になって声をかけるが、その人は不思議そうに首を傾げている。

「あの、あの」

 よく見えるように移動してみるが、なぜか彼の視線は私の頭上を通り越してしまう。

 なにか意地悪でもされているのかと不安になってくる。

「と、とにかくすみません!」

 どうしたものかと思案していると、その人は少し大袈裟に頭を下げて、階段を駆け上がって行ってしまった。

「……変な人」

 ちゃんと謝っているので、たぶん悪い人ではないと思うけど、変わっているのは間違いない。

「あ、待って! 乗ります乗ります!」

 危うく乗り遅れそうになった車両に駆け込み、息を吐く。

 短時間に三度も駆け込んだり飛び出したりして、鉄道会社さんに申し訳なく思う。

 三度目のは私の落ち度ではない、と思いたいけど。

「……なにか、急がなきゃいけない用事でもあったのかな」

 動き出した電車からホームを眺め、先ほどの男性のことを思い返す。

 あんな風に立ち止まって謝れる人が、よく確認もせず飛び出してくるとは思えない。

 だからきっと、そうしてしまうだけの理由があったんじゃないかと思う。

 普段通りではいられない、とても大切な用事かなにかが。

 額に汗を浮かべて、落ち着かない様子だった。

 でもその目に宿っているのは、とても優しく強い熱。

 あの瞳がなにを見ているのか、ちょっと気になった。

「……なんだか幸せそう、だったな」

 どうしてそう思うのか、自分でもわからない。

 けどあの人の目とか表情、雰囲気からそれが伝わって来た。

 視線の先に待つ幸せに向かって、精一杯走っているようで……。

「そうだったら、いいなぁ」

 つい、頬が緩む。

 あの人の幸せなオーラが、こっちにまで伝わって来たみたいだ。

「…………あれ、なんで、だろ」

 幸せな気分を分けて貰えた。

 きっとそのはずなのに、涙が一粒、こぼれてしまった。

 本当に、自分でもわけがわからなくて困る。

 胸の中は、こんなにも温かい気持ちで満たされているのに。

 不思議なことがありすぎて、私は困惑する。

 それでも電車は、帰るべき場所に向けて走ってくれた。

 だから今はそれに任せる。

 私が帰る部屋は、この先にあるのだから。

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