エピローグ8 桜葉孝也

 タオルで髪を拭きながらリビングに戻る。

 シャワーを浴びたおかげで、眠気は完全に飛んでくれた。

 疲労感は残っているものの、浴びる前に比べたら気にならない。

 灯々希に言われた通り、シャワーを浴びに戻って正解だった。

「日が暮れる前には戻れるな」

 どうせなら洗濯物を片付けてしまいたかったが、乾燥まで待っていられない。

 すでに予定日を二日もすぎて、いつ本格的な陣痛が始まってもおかしくないのだから。

「立ち会えませんでした、じゃすまないしな」

 そんなことになったら一生後悔する。

 笑い話にすらならない。

 少しでも早く戻れるよう、ドライヤーで一気に髪を乾かす。

 本当にいよいよなのだという実感が、どんどん強くなっていく。

 灯々希と付き合い始めて、もうすぐ五年。

 俺は今もまだ、坂崎工務店に勤めていた。

 その間に定年で退職した先輩もいれば、別の仕事に就いた人もいる。

 今年になってからは、初めて後輩もできたが、先輩と呼べる人の数はこれからも減って行く。

 誰もがずっと同じ会社に居続けるわけじゃない。

 灯々希と結婚をして、社員寮を出たりという変化はあったが、立地的にも都合がいいので、俺としては職を変えるつもりはなかった。

 給料面でも今のところは不満もない。

 これから子供が生まれてお金もかかることが増えるだろうけど、その点も心配はしていなかった。

「結局、こういう使い方になったな」

 両親が残してくれた遺産は、結局手を付けないままだった。

 でもこうなれば、使い道は決まってくる。

 灯々希もこうなることを予想していたわけじゃないと思うが、結果的には彼女の言った通りになった。

 ドライヤーをテーブルに置き、棚に飾ってある写真を眺める。

 そこに並んでいるのは、この数年の間にあったいろんな場面だ。

 自分たちが直接関わったものも、間接的に関わったものもある。

 中央に飾ってある写真は、俺と灯々希の結婚式のものだ。

 一番大きかったイベントと言えば、やっぱりそれだろう。

 灯々希の提案で、式は施設の敷地内で挙げた。

 理由はまぁ、いろいろあった。

 何度も話し合って、そうしようと納得して、実行して……。

 幸せすぎて涙が出るという経験は、今思い出してもこそばゆい。

 両親の代わりとして、社長と咲江さんがスピーチをしてくれた。

 本当にあの人たちには、感謝してもしきれない。

「咲江さんもいよいよ、だしなぁ」

 咲江さんにも、かれこれ付き合い始めて三年になる恋人がいる。

 施設の仕事に理解を示してくれる相手、というのが一番の条件だったと、あとから聞かされた。

 そんな条件を真剣に考えていた咲江さんも凄いし、それに見合う男性と出会えたことも奇跡的だと思う。

 そして二人も、再来月に結婚する。

 プロポーズされたと報告するときの咲江さんの顔は、本当に幸せそうだった。

 こっちはこっちで、妊娠の報告をしに行ったのだが。

「……実感って、いつ湧くんだろ」

 もういつ生まれてもおかしくないのに変な話だが、正直に言えばまだ、自分が父親になるという実感はなかった。

 赤ちゃんの育て方なんかは灯々希と一緒に勉強したし、そういう集まりにも参加してみた。

 準備だけは万端だと言えるけど、気持ち的な部分はまだ、追いついていないという自覚がある。

 そもそも、父親という存在をよく知らない。

 ある意味社長はそのポジションに近いかもしれないけど、やっぱり違うのだと思う。

 自分がいい父親になれるのか、という不安がある。

 そもそもいい父親ってどんなのだろうか、という疑問もあった。

「……俺の父さんも、こんな気分だったのかな」

 数年は一緒にすごしたはずなのに、顔すら思い出せない父親。

 愛情は受けていたと思うけど、どんな父親だったのかなんて、さっぱりだ。

「でもたぶん、そうだよな」

 生まれてくる子供と、灯々希のことを考える。

 それだけで胸がドキドキして、落ち着かない気持ちになる。

 けどそれは恐怖じゃなくて、期待に満ちたものだ。

 きっと俺の父親も……そして母親も、同じような気持ちだったはずだ。

 そうじゃなければ、両親を失って悲しいという気持ちだけが残るわけがない。

 愛されていたから、もう会えないことが悲しいのだ。

 だから俺は、祝福されて生まれてきたのだと、今ならわかる。

 両親を想うとどうしても悲しみがつきまとうけど。

 この痛みが、自分にとって大切な存在で、愛し愛されていた証なのだ。

「しっかりしなくちゃな」

 理想の父親はわからないけど、それでいい。

 俺は俺が思うように家族を愛して、父親になるんだ。

 そう自分に言い聞かせ、着替えを済ませて部屋を出る。

 駅まで五分程度の距離なので、あと三十分もあれば病院には戻れる。

「……もしもし?」

 電車に乗ってしばらくすると、スマホが鳴った。

 少し迷ったが、状況が状況なので、車両の間に移動して電話に出る。

『今どこ!?』

「電車だ。だからあと三十分もあれば病院に――」

『なんでタクシー使わないわけ? 今すぐ電車降りて……じゃ、変わんないか。あぁもう!』

「ちょ、待て。まさか――」

 電話越しでも悠里が焦っているのがわかる。

 その焦りだけで、話が見えてくるくらいに。

『そう! ホントに! 始まったの!』

「ちょ、ちょっと待て。もう生まれたのか!?」

『いやまだだけど! 破水とかこれからっぽいし……でもでも、赤ちゃんは待ってくれないから! とにかくすぐ来て!』

「――わ、わかった!」

 電話を切り、時間を確認する。

 一秒でも早く病院に戻らないといけない。

 が、電車の中ではどうしようもない。

 とにかくなにも問題なく、駅に到着するのを祈るばかりだ。

 次の駅で降りてタクシーに乗り換えても、大差はない。

 むしろ時間帯的に、渋滞しているかもしれない。

 そう考えると、このまま電車に乗っているほうがいい気もする。

 どっちが正解かは、神のみぞ知る、だろう。

「頼むから、待ってってくれよ」

 生まれる前からこんなことを願う父親で申し訳ないが、今は完全に他人任せだ。

「やっぱり車、買わないとな」

 灯々希と二人なら必要はなかったが、子供がそこに加わるのなら、あったほうがいい。

 それにこういうときだって車があれば、と思える。

「……いや、落ち着いて運転できるかは別問題だけどさ」

 なんてことを考えながら俺は、何度もスマホの時間と、流れる景色を見比べた。

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