エピローグ6 桜葉灯々希
「いらっしゃい」
ノックの音に答えて、やってきた二人に笑いかける。
「今日も来てくれてありがとう。連日でごめんね」
「来たくて来てるだけだし。調子はどう?」
「今のところは。でもたぶん、今夜あたりかなって思ってる」
「おー、いよいよかぁ。楽しみだなぁ」
まるで友人のように話しかけてくれる悠里ちゃんに、頬が緩む。
「飲み物とか買ってきたから、冷蔵庫入れとくね」
「うん、ありがとう」
慣れた様子で冷蔵庫に補充してくれる悠里ちゃんにお礼を言いつつ、一緒に来てくれた音羽ちゃんに視線を向ける。
「途中でご両親にお会いしましたけど、迷惑じゃありませんか?」
「まさか。ああでも言わないとお父さん、ずっとそわそわしてるだろうから」
「あぁ、なるほど」
そう言って彼女が頷くということは、まだ落ち着くには時間がかかりそうだ。
「いよいよ、なんですね。すみません、月並みな言葉しかでてこなくて」
「ううん、私もだから」
それらしい言葉は二日前から、何度も口にしている。
私も、心配してくれるみんなも。
だからもう、そのときを待つだけだ。
「で、肝心のタカ兄は?」
「一回帰宅させた。今頃シャワー、浴びてるんじゃないかな」
「え、今頃? もういつ生まれてもおかしくないのに? なに考えてんだろ、タカ兄のやつ」
「私がそうしてって言ったの。もう二日もシャワー浴びてないから。そんな状態じゃ、赤ちゃんに嫌われるよって」
「あー、確かに。無駄に汗とか掻いてそうだったもんなぁ」
「髪とか、洗ってないのが一目でわかるくらいでしたしね」
「そうそう。だから身を清めてくるようにお願いしたの」
孝也君は大分渋っていたけど、最初に汗臭いお父さんと思われてもいいのかと言ったら、素直に受け入れてくれた。
まぁ、お母さんと一緒でお父さんの汗なら好きになるかも、なんてバカげたことは言っていたけど。
そういうところが可愛いと思えてしまうのだから、我ながら少し困ってしまう。
「それにこの二日間、ちゃんと休めてないみたいだったから。困るじゃない? いよいよ正念場っていうときに疲れ果ててたらさ」
「言わなきゃ無茶しようとするからねぇ、タカ兄」
「ホントにね。頼りにもなるけど、その分こっちも気をつけないと」
そういう評価は、ここにいる三人共通のものだと思う。
「灯々希さん、案外落ち着いていますね。ちょっと驚きました」
「みんながいてくれるから、凄く心強いの」
「なるほど」
両親や孝也君だけじゃない。
こうして二人が来てくれるだけでも、安心できる。
「それに、ね……不安は全然、ないの」
眠っている子の頭を撫でるようにお腹を擦る。
もうすぐ会えるという期待のほうが、はるかに大きい。
不安を感じるほどの隙間なんて、どこにもない。
「そうだ、音羽ちゃんはどうだったの? 今日、面接だったんでしょ?」
「えぇ。まぁ、無難な感じです」
「そっか。いいところ、決まるといいね」
「そのことですけど……灯々希さんにもお話、訊いてもいいですか?」
私にも、ということは悠里ちゃんとはもう話した、ということだろう。
それを証明するように、椅子に座った悠里ちゃんが肩を竦めた。
どうやら、大切ななにかがあるらしい。
「就職する側に立ったことがないから、参考になるかはわからないけど」
一応そう前置きをして、音羽ちゃんに先を促す。
「灯々希さんはその、仕事をするとか、考えたことはないのでしょうか? 以前、目指していた職業があったと聞いたことがあるのですが」
「うん、確かにあったけど、今は特に考えてない、かな。まずは子育てが優先だし」
「そのための資格を取ったりもしていましたよね? なのに最初からそのつもりはなかったのですか?」
「えっとね、そこは自分なりのケジメって言うかね。まぁ、子育てが一段落したら、働く可能性もあるかもしれない、としか言えないかな、今は」
素直に答えつつ、ベッドの脇にいる悠里ちゃんをチラリと見る。
彼女は得意げに笑みを浮かべ、音羽ちゃんを見た。
「そのためにあたしがいるわけよ」
「と、いうことみたいで。孝也君と一緒にね、そうするべきだって説得されてるの、よく」
「ずっと前から決めてたことだし。あたしが手伝うことで灯々希さんが気兼ねなく働けるなら、ってさ」
「それらしいことは伺っていましたけど……本当に本気なのですね」
「小姑ですから」
冗談めかしているが、悠里ちゃんの本気度はしっかりと伝わっている。
何年も前から、そう宣言されていたのだから。
でもまさか、私が働きに出やすいように、ということまで考えていたとは、正直思っていなかった。
「本当にね、頼りになる小姑さんで助かる」
「それ、タカ兄にも言っておいてもらえます?」
「ん、言っておく」
悠里ちゃんと笑い合う中に、音羽ちゃんの笑みが加わった。
「あ、ごめんね。えーっと、そういうことだから、働きに出る可能性はなくはない、かな」
「えぇ、よくわかりました」
「音羽はさ、進路、悩んでるみたいで。いっそ実家の会社を手伝えばって話してたの」
「あぁ、そういうこと」
以前一緒にお酒を飲んだとき、そんな話をしていたと思い出す。
目標らしい目標、夢と呼べるほどのものがない、と。
なるほど、就活が本格的になる時期なら、思い悩むのも当然だ。
私も悠里ちゃんも、それに孝也君もある意味悩まなかったタイプなので、その悩みをちゃんと理解してあげられるとは言えない。
でも、これでも店長として経験したことがいくつもある。
「なにも一人で決めなくてもいいんだし、身近な人にどんどん相談してみたらいいと思う。実家の会社がどうとかも含めて、ね」
「相談すべき、でしょうか」
「うん。大人になったら痛感すると思う。誰かに相談することの大切さとか」
音羽ちゃんはきっと、私と似たタイプだ。
自分一人である程度できてしまうから、相談するとか、誰かを頼るとかいう考えが後回しになる。
私の場合はそこに、彼がいてくれた。
彼にだけは弱音を吐いたり、相談することができた。
だから今の私がある。
そんな私だからこそ、相談することが大切だと、彼女に伝えられるのだと思う。
「確かに、相談してみるべきですね」
音羽ちゃんは噛み締めるように頷き、笑みを浮かべる。
道が開けたように、表情は明るい。
「ありがとうございます。帰ったら、まずは両親に相談してみようと思います」
「うん、それがいいと思う。そのあとで私たちでも良かったら、話は聞くから」
「えぇ、そのときはぜひ、お願いします」
真面目な話はそれくらいにして、女の子同士の他愛のない会話に花が咲く。
病室に広がる楽しげな笑い声。
そして、それに誘われるようにして、そのときが来た。
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