エピローグ5 桜葉灯々希

「ねぇ、もう少し落ち着けない?」

「す、すまん」

「そわそわしすぎ。こっちまで落ち着かないから、ジッとしてて」

「そう言われてもだな……」

「わかった。じゃあ落ち着くまで外に出てて」

「む? だが灯々希――」

「いいから。落ち着くまで戻ってこないで。わかった?」

「…………うむ」

 叱られた子供のように肩をしょんぼりと落とし、父は病室から出て行った。

「それじゃあ、私も出てるから。なにかあったら呼んで」

「うん。お父さんのこと、よろしく」

 そんな父が放っておけないのか、それとも私に気を遣ってくれたのか、母も一緒に行ってしまう。

 一人というのもそれはそれで落ち着かない気分になるけど、あの父の様子を見ているよりはたぶん、楽だと思う。

 当事者である私よりも不安げな顔は、せめてどうにかして欲しい。

「まぁ、仕方ないとは思うけど……ね?」

 そう呟きながら、大きくなったお腹を擦る。

「ちょっと寝坊したくらいで、心配しすぎだよね」

 もちろん返ってくる言葉はないが、なんとなくそうしてしまう。

 自分でも不思議なくらい、落ち着いていた。

 出産予定日は二日前。

 この病室に入ったのは、その前日だ。

 予定日をすぎても、まだ生まれそうな気配がない。

 父が落ち着かない様子なのは、全部そのせいだ。

 母はさすがというか、落ち着いたものだったけど。

「あの二人の姿を見たら、落ち着いちゃうよね」

 父と一緒に不安そうな顔をしていたのは、生まれてくる子供の父親でもあり、私の結婚相手でもある桜葉孝也君だ。

 あの二人が揃ってオロオロする姿に、私も母も思わず笑ってしまった。

 そんな光景が見られただけでも、ちょっとの遅刻はアリかなと思える。

 どこにでもありそうな、実に微笑ましい光景だった。

 予定日を二日もすぎれば、私だって多少は不安を覚える。

 だけど不思議なもので、予感めいたものがあった。

 もうすぐだという、そんな予感が。

 だからこの二日間、ずっと病室にいた孝也君には、今のうちに一度帰ってもらった。

 正念場は夕方から夜になる、はずだ。

 いくら育児休暇として休みを貰っていると言っても、二日もシャワーを浴びずにいるのはどうかと思う。

 生まれてくる赤ちゃんを抱くのなら、一度綺麗にしてくるようにと、少し前に追い出した。

 心配性なところは、うちの父とよく似ている。

「孝也君、か」

 その呼び方をするようになってから、もう三年くらいになる。

 いろいろあったけど、ここまで来た。

 付き合い始めてから、もうすぐ五年。

 両親は無事お店に復帰して、私は店長代理として役目を終えた。

 もちろんしばらくは手伝っていたけど、以前のようにあまり表には出なかった。

 経営という点でみれば、今でも順調そのものだ。

 おかげで私も、時間的余裕ができた。

 とは言っても、大学にまた行こうという気にはなれなかった。

 ただ、いくつかの資格は独学で取得したけど。

 それでもまぁ、かつての目標だった職業を目指そうなんて、今は考えてはいない。

 資格を取得したのは、自分なりのケジメだ。

 将来的にどうするかはわからないし、むしろ孝也君は積極的に大学や就職を勧めてくれたけど、その気持ちだけを受け取ることにした。

 それよりも私は、彼と一緒にすごす時間を選びたかったのだ。

 両親がお店に復帰する頃に、彼とは会ってもらった。

 あのときの緊張した姿は、今思い出しても笑いが込み上げてくる。

 そして二年前、私は孝也君と一緒に暮らし始めた。いわゆる、同棲というものになる。

 きっかけとしては、私が引っ越すことにしたからだ。

 店長でもないのに、あのマンションに住み続ける理由はなく、だったらということで、同棲することにした。

 そして一年前、結婚した。

「あれから一年、かぁ。あっという間だったな」

 スマホの写真を眺めて、お腹に手を当てる。

 結婚式は、あの施設で挙げた。

 私が希望して、彼が受け入れてくれた。

 彼の親族として参加してくれたのは施設の子供たちと、彼に所縁のある人たち。

 ずらりと並んだ笑顔の写真を見ると、胸の奥が満たされ、自然と笑みがこぼれてしまう。

 あれ以上の結婚式は、想像ができない。

 それくらい私にとって……そして彼にとっても、いい結婚式だったと思う。

 そして次に私は、彼との家族を望んだ。

 新しい生命を。

 孝也君はそれよりも、私の夢や将来を考えるべきだと言ってくれたけど、それは今じゃなくていいと、そう思った。

 もちろん、彼一人に働かせ続けるのはどうかと思うし、いつかは仕事をするつもりではある。

 どんな形にせよ、だ。

 ただそれよりも今は、そうしたかったのだ。

 彼と結ばれ、一緒になり、育んでいく。

 この決断に後悔はない。

 後悔なんて、するわけがない。

 だって、今以上の幸せなんて、やっぱり何度考えても想像できないのだから。

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