6-10

「もう着いちゃったか」

 駅前から俺のペースで歩いて十五分。

 悠里に合わせたこともあり、二十分ほどで施設の前に到着した。

 送って行くという目的は、これで達成だ。

「ねぇ、近所をこう、ぐるっともう一周、しよっか」

「しない」

「ケチ」

 ぐるっと一周する理由も、ケチ呼ばわりされる意味もわからない。

 別にこれが最後になるわけじゃないのだから。

「酒飲んでるから、早く帰ってシャワー浴びて寝たいんだ」

「なら今日泊まってけば?」

「バカ言うな。いきなりじゃ迷惑だろ」

「なんとかなるって。先生もダメとは言わないと思うし」

 確かに咲江さんなら、いきなり泊めてくださいと言っても、断ったりしない気がする。

 酒を飲んでもう歩きたくないので、なんて言ったら呆れられそうだが。

「ちゃんと予定を立ててから来るから。それでいいだろ」

「あと数日しかないから、さっさと決めないとね」

「……あぁ。明日にでも連絡する」

「あ、ちなみにだけど、ちゃんとあたしのバイトに合わせてね? 連続した休みはないから、泊まりに来るなら次が休みの日限定でよろしく」

「お前それ、ほとんど選択肢なくないか?」

「予定がないなら、あたしに合わせてくれてもいいよね? タカ兄と違ってあたし、バイトって予定があるんだからさ」

「……わかった。バイトのスケジュール、送ってくれ」

「うん、あとで送っとく」

 この時点でもう、いつ泊まるのかは決まったようなものだ。

 どうすごすかを考える必要がなくなるので、ある意味では助かる。

 が、どうも悠里に主導権を握られっぱなしで、それはよくない気がする。

「とりあえず、今日はありがと」

「俺がそうしようと思っただけだ」

「だからありがとうって言ってるの。前のタカ兄なら、考えたところで口には出さなかっただろうしさ」

 悠里の言う通りだ。

 以前の俺だったら、心配だったとしてもここまではしなかっただろう。

 気を付けて帰れよ、くらいは言ったかもしれないが、言ってもその程度だ。

「ホント、夢みたいっていうか……まだちょっと、信じられない」

「だろうな」

 俺自身がそうなのだから、悠里はそれ以上かもしれない。

「シフトの話だけどな、一回くらい考えてみないか?」

「……そんなに心配?」

「なんだろうな。自分でもよくわからないんだけど、なんか、な……」

 心配と言うより、不安と言うべきかもしれない。

 前向きになろうと思ったからだろうか。

 今まで見過ごせていた日常が、ふとした瞬間、怖くなる。

 呪いが解けたとしても、予期せぬことが起きなくなったわけじゃない。

 俺の知らないところで、日々事故は起こっている。

 それが身近に起きるんじゃないかという不安は、以前より強くなった気がする。

 そして一番不安を覚えやすい、危うい位置に立っているのは、たぶん悠里だ。

 だからだろう。

 悠里と一緒にいると、どこまで心配していいのかわからなくなるのは。

「大丈夫だよ、タカ兄」

 穏やかな声と共に、握り締めた拳に温もりが重なる。

 たったそれだけで、いくらか安堵してしまう自分が、情けない。

「あたしは、大丈夫」

「根拠がないだろ、それ」

「事故とか事件に遭遇する確率なんて、そうそうないって」

「だとしても、ゼロじゃないだろ」

「特大の不幸はずっと昔に経験済みだから、まぁ大丈夫でしょ」

「……笑えないぞ、それ」

 悠里が施設に来る前、どんな生活を強いられていたのか、俺だって全て把握しているわけじゃない。

 咲江さんも話したりはしないし、悠里自身もそうだ。

 だが、俺とは別の意味で、幸せとは程遠い生活だったはずだ。

 初めて会ったときの顔は、生涯忘れることはないだろう。

 今の悠里からは想像もできないほど、敵意に満ちていた、あの顔を。

「大丈夫。今はあたし、笑えるから」

 こんな風に、と悠里は微笑んで見せる。

 あの頃の悠里を埋め尽くしていた感情とは、真逆の感情を詰め込んだ笑み。

「ここと、タカ兄のおかげ」

「だからって……」

「悪い方向にばっかり考えてたら、なんにもできなくなっちゃうでしょ。ほら、前向き前向き」

「前向きと楽観は違うと思うけどな」

 バシバシと叩いてくる悠里に、思わず苦笑してしまう。

 だが、間違いではないのかもしれない。

 どこに不幸が潜んでいるかわからない。

 そんな世界で、みんな生きて行くしかないのだから。

「それはそれとして、バイト先を近場にするとかはアリだろ」

「ま、検討の余地はあるんだけどね。ただ、あの店は結構気に入ってるから」

「……まさか、衣装が、とか言わないだろうな」

「……なきにしも、かな」

 そんな理由なら近場でバイトをしろと言いたいが、実際のところはなぞだ。

 まぁ、これ以上しつこく言うのも、過保護すぎてウザがられそうなのでやめておこう。

 さすがに自分でも、面倒くさい大人になりかけているのがわかる。

「じゃあ、俺は帰るから」

「うん。でもその前に……はい」

 駅へ戻ろうとする俺の前に、悠里は拳を突き出す。

 正確には、拳から一本だけ、指を立てていた。

「ちゃんと泊まりに来るって、約束」

「……心配しなくても来るって」

 だから指切りなんて子供じみたことはしなくていいだろう、と渋る。

「うーん、ダメ。口約束で済ませられるほど、タカ兄の信頼度はまだ回復してないから」

「だからってそれは……」

「大声出すよ?」

「最悪な脅し文句だぞ、それ」

 おまけに笑顔で言うセリフじゃない。

「――――」

 無言の圧力に屈し、ため息をつく。

 本当に頭が上がらない状況は、なんとかしなくては。

 諦めて悠里の小指に、自分の小指を絡める。

 意外にも悠里は、優しく小指を絡めてきた。

「指切りげんまん――」

 最後にいつ聞いたかわからない口上を述べる悠里と、いつかの悠里が重なる。

 そう言えば、いつかこんな風に、悠里と指切りをしたことがあった。

 でも、詳細は思い出せない。

 なにを約束して、俺はその約束を守れたのかどうか。

「嘘ついたら……タカ兄のアパートに乗り込むぞー、指切った」

 そんな感傷すら吹き飛ぶ、実現可能すぎる不穏な指切りに、俺は思わず真顔になってしまった。

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