6-8

「日本酒、美味しかったですねぇ」

 三時間以上居酒屋にいたとは思えないくらい、アンジェは正気を保っていた。

 アルコールに対する免疫でもできたのか、初めて来たときのように、足元が覚束ないという感じはない。

 俺よりも随分と多く飲んでいたはずだが、女神とはそういうものなのだろうか。

「ネット通販があるなら、いくつか買ってみてもいいかもです」

「ほどほどならいいんじゃないか」

 どの程度にしておくかは、アンジェの自己責任になる。

 反応を見る限り、ビールよりも日本酒が好みだったようだ。

「それはそうと、どうでしたか?」

「どうって、なにが?」

「ラブコメの波動です。感じていただけましたか?」

 ニヤニヤと目を細めながら覗き込んでくるアンジェを、ジト目で見やる。

 本人は至って楽しそうで、おそらくは悪気もないのだろう。

 だが俺に言わせてみれば、迷惑この上ない。

 だいたい、なにがラブコメの波動だ。

 感じるか、そんなもん。

「今日のことで灯々希さんはきっと、孝也さんをより意識するようになったと思うんです」

「まぁ、ある意味ではそうだろうけど」

 しかしその意識する感情が怒りの類であれば、逆効果だと思う。

 店にいる間、灯々希は終始営業スマイルを貫いていたが、その内側ではどんな感情が渦巻いていたか。

 少なくとも俺に対する評価は、上がるどころか急降下したのではないだろうか。

 告白して断られているとは言え、それは終わりではなく始まりにするためだった。

 お互いにそれを納得して、あの日は別れたのだ。

 なのに次に会ったとき、別の女性と一緒に現れたとしたらどう思うか。

「言っておくが、サポートなんて必要ない。俺は俺のペースでやってくから、余計なことはしなくていい」

「孝也さんのペースだと、一年後も女性に振り回されていそうな気がして」

「余計なお世話だよ」

 自分でもそうなりかねないと思ってはいるが、アンジェに言われたくはない。

「時間はいくらでもあるから待ってるんだろ?」

「そうなんですけど、なにかしら波風を立てておかないと、そのまま有耶無耶になりそうな匂いがしたので」

「どんな匂いだよ……ったく」

 こっちはまだ、新しい生き方に戸惑っているというのに。

「すみません。出しゃばってしまって」

「本当にな」

「でもでも、きっかけにはなるはずです。このあと孝也さんがどうフォローして、ついでにどうアプローチするかが重要です。転機ですよ、転機」

「……そうかもだけどさ」

 どうするのが正解かなんて、さっぱりわからない。

 フォローを入れる必要はあるだろうが、それをどうするのかが問題だ。

 初心者も同然の俺が挑むには、難易度が高すぎる転機だと思う。

 連休中は忙しいとわかっていたので、連絡しにくかったのは認めるが。

「もういい。帰るぞ」

 灯々希の仕事が終わる前には、なにかしらフォローのメッセージを入れておくしかない。

 問題はどういう言葉でフォローするかだが……。

「…………タカ兄?」

 どうしてこう、問題は立て続けに起こるのだろう。

「あ、悠里さん。こんばんは」

 もしかしたら、アンジェが仕組んでいるのではないかと疑いたくなる。

「……アンジェさんまで。こんばんは」

 目元を押さえて立ち尽くす俺をよそに、アンジェと悠里は挨拶を済ませた。

 つまり、間違いなく今ここにいるのは、悠里ということだ。

「……バイト帰りか?」

 目をそらしても意味がないので、観念して悠里に話しかける。

「まぁね」

 前回とは違い、悠里は馴染みのあるパンツスタイルの服を着ていた。

 そして、前回と違うところがもう一つある。

「……で? タカ兄はなに? 早速アンジェさんとお酒、飲んでたの?」

 腕組みをしてじろりと見てくる悠里は、俺たちの背後にある居酒屋を一瞥する。

 早速という言葉に、なんだか棘がある。

 察しの良さはさすがと言えた。

「まぁ、ちょっとあってな」

「ちょっとって?」

「深い意味はないってことだ」

「わざわざ電車で来たのに?」

「それは……まぁ」

 アンジェがどこに住んでいるかは知らないはずだが、施設の最寄り駅に来たのが引っかかるのだろう。

 俺の性格を考えれば、当然かもしれない。

「この店は、灯々希さんのお店なんです。孝也さんと来るのは二度目ですけど、いいお店ですよ」

 あえて言わないでおこうと思った部分を、アンジェは全て話してしまった。

 悪気はないのだと、思いたい。

「……そっか。あの人の店だったんだ、ここ」

 そしておそらく、悠里は全てを察した。

 多分に誤解は含まれていると思うが、悠里にとっては誤差でしかない。

 こんなに近くにいたのか、とでも言いたげに悠里は目を細める。

 まぁ、考えてみれば今までよくも会わずに済んでいたものだと思う。

 もしかしたらニアミスくらいはしていたかもしれないが、少なくとも悠里は、灯々希がこの辺りにいるとは思っていなかったはずだ。

 先入観がそうさせていた、奇跡のようなものだったのかもしれない。

「で? なんでアンジェさんと一緒なわけ?」

 そのうち俺は、『で?』という言葉がトラウマになってしまうのではないだろうか。

 そう思えてしまうだけの迫力が、その短すぎる言葉には込められていた。

「それはですね、私が綺麗な身体になれたので、お祝いに」

「……………………へぇ」

 たっぷりと溜めてから漏れたその声に、俺は仏のような気持ちで息を吐いた。

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