4-6

 ――そのランプは、忘れ物のように置かれていた。


 もう存在すら気に留めていなかったが、棚の上にそれは、ずっとあった。

 濡れた靴を脱ぎ、床が汚れるのも気にせず、部屋に入る。

 置きっぱなしにされていたランプは、埃一つかぶっていなかった。

 こまめに掃除はしていたらしい。

「最初だけだったな」

 願いがあるかどうかは訊いてきたが、催促するようなことはなかったように思う。

 俺にその気がないから諦めていた、というわけでもなさそうだったが。

 雨で濡れた髪をかき上げ、ランプを手に取る。

「魔法の……じゃないな。なんだっけ」

 あぁそうだ。幸福のランプだと、アンジェは言っていた。

 俺を幸福にするためのもの、みたいな説明を受けたはずだ。

「これだけ残していくっていうのも、わけがわからないな」

 アンジェがいなくても、願いは叶うということか。

「って、まるで信じてるみたいじゃないか」

 いつの間にか、アンジェの話が本当だという前提で考えてしまっていた。

 馬鹿げている。

 こんな玩具……とは言わないが、値の張りそうなランプだからといって、人知を超えたものだとは思えない。

 そもそも、そんなものが存在しているとも、思えない。

 だから、気まぐれだ。

 俺は唇を歪めて自嘲しながら、ランプをこする。

「……勝手に、いなくなるなよ」

 そして口から出た願いは、そんな愚痴としか言えないものだった。

「…………ごめん、なさい」

「――――っ⁉」

 ありえないはずの答えに、ハッとして振り返る。

 誰もいないはずの玄関に、彼女はいた。

 俺と同じ、頭からつま先までずぶ濡れの姿で。

「……それじゃあまるで、幽霊だぞ」

 全身ずぶ濡れで玄関に佇む姿は、神聖さとは程遠い。

「私は、女神です」

「……全然見えないけどな」

 俺は苦笑しながら、手にしたランプを見る。

「どういう仕組みだ?」

「今度はちゃんと、こすってくれましたね」

 俺の問いには答えず、アンジェは儚げな笑顔を浮かべる。

「別に、信じちゃいない。ただ、なんとなくだ」

「それでも、いいんです。孝也さんがランプをこすってくれただけで、私としては一歩前進ですから」

「そっちがそれでいいなら、まぁ」

 満足するのは、アンジェの勝手だ。

 それよりも俺は、言いたいことがある。

「お前な、勝手にいなくなるなよ」

「すみません。私には、どうしようもなかったんです」

「どうしようもないって……あぁいや、そっちの事情はどうでもいい。どうせ言い訳にしか聞こえない」

「そう、ですよね。勝手で、すみません」

 丁寧に頭を下げるアンジェの髪から、水滴が落ちる。

 それが一瞬、涙のように見えてしまった。

 アンジェが泣くような理由は、どこにもないはずなのに。

 なんとなくバツの悪さを覚え、ランプをテーブルに置いて仕切りなおす。

「とりあえず、だ。いなくなるなら、ちゃんと言え。あんな……電車の中でいきなり消えるな。ビビるだろ」

「それは……はい」

 なんだか苛めているような気になってしまうが、これだけは言っておかないと気が済まない。

「あと、いなくなるならせめて、俺の記憶を消していけ」

 勝手にやってきて、散々こっちの生活を引っ掻き回して、勝手にいなくなる。

「飛ぶ鳥跡を濁さずって言葉があるんだ。それくらい、知ってるだろ」

「……言葉の意味は、わかります。私の存在は迷惑、でしたか?」

「あぁ、かなりな。いらん誤解を与えまくるし、勝手に俺の知らないところであいつらと会うし、なにがしたいのかわからない」

「……すみません。どうしても、なにかしたくて」

「そういうのが全部勝手なんだよ。おまけに、ほったらかしで消える。これが一番質が悪い」

 まさに自分を棚に上げていると、笑ってしまいそうになるが、我慢する。

「とにかく、次はちゃんと、記憶を消していってくれ。女神だか天使だか知らないけど、奇跡を起こせるならそれくらいできるだろ」

 気が利かないにも、ほどがある。

「……それでは、悲しいです」

「忘れちまえば、どうとも思わない」

 それは俺の本心だった。

 いっそすべて忘れてしまえたら、どんなに楽か。

 そんな俺の言葉に、アンジェは一層悲しげな顔をする。

 どうしてそんな顔をするのかが、気になってしまった。

「なぁ、そろそろいいだろ。ちゃんと全部、話せよ」

 アンジェが何者であるのか、目的はなんなのか。

 どうして、俺なのか。

 知らなくてもいいとは、もう言えない。

 そうしなければ、俺だけじゃなく、アンジェまで立ち止まったままなのだと、わかった気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る