3-9

「……もしもし」

 あまりにも絶妙なタイミングに嫌な予感をひしひしと覚えつつ、便座に座りなおして電話に出る。

『夜分遅くにすみません。至急確認したいことができたのですが、よろしいですか?』

 丁寧な言葉遣いながら、有無を言わせぬ迫力がある。

 電話の相手は、音羽ちゃんだった。

「えっと、なんでしょう?」

『実は今しがた、上郷先輩からある連絡を受けまして』

 あ、あいつ、まさか本気で?

「なにを聞いたか知らないけど、誤解だ。俺はセクハラなんてしてない」

『なんの話ですか? セクハラを受けたなどという話は聞いていませんが……上郷先輩になにかしたんですか? あと声が少し反響しているような気がします』

「……違う。激しく誤解だ。声のほうもあわせて、忘れてくれ」

 自ら掘った墓穴を必死に埋める。

『土下座でもしていそうな勢いなので構いませんが』

 祈りにも似た懇願が通じ、胸をなでおろす。

『なにやら、社員寮の規則について質問を受けました』

「……どんな?」

『アパートに女を連れ込んだり、あまつさえ同棲することはありなのか否か、という具体的なものでした』

 思わずむせ返ってしまう。

 なんて直接的な質問をしているんだあいつは。

『基本的にはないはずだとお答えしましたが……そんな疑いをかけられるなにかが、あったのですか?』

「いや、ない。あいつが……悠里が勝手に勘違いしてるだけだから、うん」

 あんな物音一つでそこまで疑うほうが、どうかと思う。

 そしてそれを音羽ちゃんに確認するあたり、疑いの深さが伺える。

『えぇ、その可能性は高いだろうと、私も考えました。ただ、気になる点がないわけではなかったので、こうして電話をさしあげたわけです』

 刃を抜くような、僅かな間が空く。

『――先日の、アンジェという金髪碧眼の女性について』

「だ、だからあれは――」

『まさか、こっそりそこで同棲している、などということはありませんよね?』

「……して、ない」

 一息で心臓を貫くような声に、不覚にも動揺してしまった。

 自分でも声が硬かったのがわかる。

『……なるほど』

「ち、違うんだ。勝手に納得しないでくれ」

 これほど恐ろしく感じた『なるほど』は、かつてない。

『えぇ、大丈夫です。誤解はきっと、ありませんから』

「……その言い方だと、致命的な誤解があるように聞こえるんだけど」

『ふふっ、安心していいですよ。私は桜葉さんの味方、ですから』

 これは、どう考えても……。

「誤解だということは強く言っておくとして……この話、社長には?」

『していませんし、するつもりはありません』

「本当に?」

『えぇ…………今のところは』

「……………………なるほど」

 大きく息を吸い、吐き出す。

 確証があるわけではないだろうが、音羽ちゃん的にはかなり怪しんでいるようだ。

 楽しそうな声色から、泣きたくなるほど伝わってくる。

「えーっと、あの……なんだ」

『この件は、胸に秘めておきます』

「なんのことかはわからないけど、そうしてくれるなら、うん……嬉しいかな」

『えぇ、貸し一つ、ということで』

「……音羽ちゃん、そういうのはちょっと、女子高生としてどうかと思う」

 会社を継いだら、案外やり手になりそうな気がする。

『次の誕生日、楽しみにしていますね』

「……その時期が近づいてきたら、改めて相談しよう」

『えぇ、構いませんよ。本当に楽しみにしておきますから、ね』

「あぁ、忘れない」

『では、おやすみなさい、桜葉先生』

 悪戯めいた声を残して切れた電話に、頭を抱える。

 とんでもないジョーカーを握られてしまった。

 関わりを持ちたくないという俺の感情を無視して、状況は悪いほうへとばかり進んでいる気がする。

 悠里と音羽ちゃんという、素直に喜べない包囲網ともいうべき、厄介な連絡網も構築されつつあるようだし。

 悩んでいても仕方がないと頬を軽く叩き、トイレを出る。

「…………」

 すぐそこに、申し訳なさそうにしているアンジェが立っていた。

 俺の声から、電話の内容を少なからず察したのだろう。

「私のせいで、また孝也さんにご迷惑を……」

「いいよ。わざとじゃないんだろ?」

「それは、そうですけど……」

「ならいい。ただまぁ、次があったら気を付けてくれれば、な」

「……はい」

 重くならないよう笑ってみせるが、アンジェの表情は優れない。

 ドジって迷惑をかけるくらいはもう慣れたものだろうに。

「出たばっかりだけど、シャワー、先にいいか?」

「はい。私はあとで、構いません」

「わかった。んじゃ」

 このまま俺がいると重苦しいままな気がして、逃げるようにそう言った。

 本当にそこまで気に病む必要はないのだが……。

 アンジェがそれほど暗い表情になる理由が、俺にはわからなかった。

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