3-8
『…………ねぇ、もしかしてそこ、誰かいる?』
「いない」
聞き洩らすことなく、鋭く突っ込んでくる悠里に即答する。
『即答するのって、やましいことがあるからじゃなくて?』
なんなんだこいつは。探偵でも目指すつもりか?
「本当になんでもないんだって。俺の言うことが信じられないのかよ」
申し訳なさそうに何度も頭を下げているアンジェに、気にしなくていいと軽く手を振る。
わざとやったわけじゃないのは、あの様子を見ればわかる。
ただいつものように、ドジっただけだ。
『タカ兄は信用してるけど、タカ兄のなんでもないは信じない。そういうときって、いっつもなにかを隠すときだから』
付き合いも長くなると、面倒が増えて困る。
『もしかしてあの……アンジェって女がいるんじゃない?』
「だから違うって」
ありったけの精神力で平静を装いながら、トイレに移動する。
これで多少音を立てたとしても、誤魔化せるはずだ。
『だったら証拠みせてよ。テレビ電話に切り替えて』
「お前な、疑いすぎだぞ」
『……なんか声、反響してない? 場所変えた?』
勘が鋭いというか、洞察力があるというか。
「まぁ、トイレの中にいる。風呂とトイレが一緒のタイプだから、反響してるのはそのせいだろ」
ここまで嘘を重ねている以上、答えられる部分には素直に答えておく。
『え、なに。あたしと電話しながら、トイレ入ってるわけ?』
「そうだけど?」
『うわ、なんかキモ。っていうか普通に不快なんですけど』
「だったら切ればいいだろ」
こっちとしてはそのほうが好都合だ。
『もしかしてタカ兄、今その……してるわけ?』
「おい待て。お前、想像してないだろうな?」
『して欲しいの?』
「……なかなかタフな返しだな」
キモいとか言ったんだから、最後までそのスタンスを貫いて欲しい。
三年前ならギャーギャーわめいて電話を即切りしていただろうに。
『ま、生理現象に文句言うほど非道じゃないんでいいけど。妙な音とか聞かせないようにしてくれるなら、だけどさ』
「なんだ、妙な音を聞かせたら切ってくれるのか?」
『うん。ただ、坂崎音羽に詳細な説明して、セクハラされたって言いふらすけど』
それでもいいならどうぞ、と言いたげに電話口で鼻を鳴らす。
「それはマジでやめてくれ」
ただでさえ音羽ちゃんには、末恐ろしい気配を感じているんだ。
これ以上弱みになる情報は与えたくない。
「……って、ちょっと待て。お前、音羽ちゃんの連絡先知ってるのか?」
『当然でしょ。っていうか、あっちから交換しましょうって言ってきたんだけど』
なんてことだ……。
仲良くなったら遊びにくるかもとか言っておいて、その可能性を音羽ちゃんのほうから作りにいっていたなんて。
『……で? タカ兄はいつから、社長の娘をちゃんづけで呼ぶような仲になってたわけ?』
これで何度目のやらかしだろうか。
自分の失敗に、もはやため息すら出ない。
「……そ、それよりだ。進路について少しは考えたのか?」
『苦し紛れにしても、もう少しやりようがあると思うんですけど』
苦し紛れとわかっているのなら、大目に見てくれてもいいじゃないか。
『ま、今日は許してあげる。名目は進路相談なわけだし』
「名目って、お前な……で、どうなんだ?」
『考えてはみたけど、進学してまでやりたいことなんてないし、だったら早く就職して自立したい……タカ兄みたいに』
「俺を参考にするなよ。自分で言うのもなんだが、悪い例だぞ」
自分で言っていて情けなくはあるが、それは間違いない。
「自立するにしても、大学を出てからのほうが安定するはずだ。その間になにか見つかるかもしれないんだし、焦る必要はないだろ」
『焦ってないし……あたしはただ、思う通りに……好きに、生きたいだけ』
それまでとは違い、悠里の声は小さかった。
まるで拗ねているときのような、控えめな主張だ。
「自立したからって、なにもかもが自由になるわけじゃないぞ。その分面倒が増えるもんだし」
『一人前だって……大人だって認めてくれるなら、そんなの、どうでもいい』
「悠里、あのな……」
『っていうか、一番やりたいようにやったタカ兄にだけは言われたくないし! このアホ兄っ!』
「あっ、おい」
最後に好き勝手言い残し、悠里は電話を切った。
「ったく……」
変なとこだけ子供っぽいままだ。
これじゃあ進路相談にならないと思いながら、ついでに用を足していくことにする。
そして部屋に戻ろうと立ち上がったところで、また電話が鳴った。
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