2-9
「先生はどんな感じだったんですか?」
「その呼び方はやめてくれ」
勉強をするつもりはもうないのか、音羽ちゃんはテーブルから少し身体を離し、ベッドに背中を預けて抱えた両膝に顎を乗せる。
「わかりました。その代わり、聞かせてください」
普通なら絶対に成立しない取引なのだが、そうしなければ悪戯めいた呼び方はやめてくれないのだろう。
「別に面白い話にはならないぞ」
「構いません」
仕方がないとため息をつき、彼女にならって足を崩す。
「ごく普通……とはまぁ言えなかったんだろうけど、だからって特別だったわけでもないと思う」
「大人しいほうだったんですか?」
「そうだな。基本的に喋らなかったし。だからまぁ、友達ってのはいなかったな」
我ながら過去の恥を晒すようで、笑いながらでもなければ話せない。
「あ、うちのクラスにもいますよ。休み時間はこう、腕を組んでムッとしてるタイプの男子。で、授業中は外をこんな風に眺めて、なんかたそがれてます。そういう感じだったんですね、意外です」
「違う。それとは決定的に違うから、変なイメージを持たないでくれ」
「必死すぎですよ。さすがにそれくらいわかってます。冗談ですよ」
「それはなによりだ」
「でも、うん。なんだか、想像できます」
それはそれで喜んでいいのか、難しい。
「まさか、それで終わりじゃないですよね?」
「と言われても……あとはそうだな。バイトは、ずっとしてた。いや、そればっかりだったな」
「じゃあ、うちの会社が初めてじゃなかったんですね」
「就職って意味なら、初めてに変わりはないけどな」
アルバイトと正社員では、いろいろと違いすぎる。
働く、という意味では同じかもしれないが。
「あんまり勉強してなかったのも、アルバイトを優先していたから、ですか」
「そういう言い方もできるけど、実際は勉強が好きじゃなかったからな。胸を張って言えるようなことじゃない」
それに、いくつかのアルバイトを掛け持ちしながら、短期的にバイト先を変え続けた三年間だった。
一つのバイトを長くは続けず、働く日数は少なめに。
その分、数を増やしていた。
「アルバイトをしすぎていたから、友達もできなかったんじゃないですか?」
「それもあるだろうけど……まぁ、浮いてたってのは、変わらないよ」
事情を隠していたわけでもなく、かと言って自分から公言していたわけでもないが、どうしたって噂は広まる。
それを考えれば、バイトに関係なく、親しい友人などできなくて当たり前だったと思う。
「……じゃあ、カノジョとかもナシですか?」
「……いないよ」
そう答えてすぐ、失敗に気づく。
が、すでに遅い。
「その感じ、意味深ですね」
好奇心を一切隠すことなく、音羽ちゃんはテーブルに上半身を乗せ、首を傾けながら見上げてくる。
「しまったっていう顔、してますよ?」
「……気のせいだろ」
「隠さなくてもいいじゃないですか。恋人、いたんですか? どんな人なんです? もしかして初恋ですか?」
実に女子らしい反応を見せる。彼女もやはり、この手の話は好きなのか。
だが残念なことに、その期待には応えられないと首を振る。
「今も昔も、特別な相手がいたことはない」
そんな俺の言葉からなにを読み取ったのか、彼女はジッとこっちを見て、思案するように軽く顎に触れる。
「嘘って感じは、しないですね」
「本当だからな」
「でも、好きな人はいた……そんな感じがします」
心の奥を見透かすような声に、つい動揺してしまう。
当然、音羽ちゃんがそれを見逃すはずがない。
「正解、ですか?」
言質を取ろうとしてさらに音羽ちゃんが身を乗り出してくる。
どう説明したものか、と俺が悩んだ時だった。
「調子はどうかな?」
ノックもせずにドアを開けて、社長が姿を現した。
「…………お父さん」
俺でもわかる悪手を打つ社長に、音羽ちゃんの鋭い視線が突き刺さる。
個人的には追及を免れることができて助かったが、邪魔をされた音羽ちゃんが機嫌を損ねるのは当然だった。
社長も自分の失態をすぐに理解したのだろう。
テーブルに身を乗り出していた音羽ちゃんに言いたいことがあるはずだが、それを訊けるような状況ではなかった。
「……ドア、閉めて」
「……あ、あぁ、そうだな、うん」
と言って娘の部屋に入りながらドアを閉めようとするのは、最悪に近い。
「お父さん。そういう冗談、今、笑えない」
「冗談のつもりじゃ……いや、うん」
視線だけで反論を封じる音羽ちゃんには、風格すら感じる。
まぁ、社長もやらかした自覚があるから弱気になってしまうのだろうが。
「あのな、音羽。お父さんは別に――」
「私は今、桜葉さんと話をしているの。弁解の必要はないから、出ていって」
「…………勉強、頑張って」
しょんぼりと肩を落として出ていく社長に、心の中で励ましの言葉を贈る。
思春期の娘を持つ父親の大変さを目の当たりにし、不謹慎ながら口元が緩んでしまう。
それを自分が笑われたとでも思ったのか、音羽ちゃんは微かに頬を膨らませる。
「まったく、お父さんときたら……」
「仕方ないって。それだけ君が大切だってことだろ」
不満の矛先を父親に向ける音羽ちゃんを宥める。
「だとしても、ルールはあります」
「まぁ、ノックはしないとな」
「それもですけど……はぁ。少しは子離れして欲しいです」
自分の対応もどこか子供っぽいと自覚があるのかもしれない。
実際、微かに頬を赤らめて頬を膨らませる姿は、年相応の子供に見える。
「いつまでもはできないんだ。今くらいは甘んじて受けておけばいいんだよ」
それは自然と口をついて出た言葉だった。
特に深い意味を込めたわけでもなく、まるでこぼれたような言葉。
「……すみません、私」
「音羽ちゃんが謝る要素なんて、なにもないって」
「――でも」
「本当に。いいんだって」
かれこれ三年も経つんだ。
音羽ちゃんが俺の事情を薄っすらと知っているとしても、なにもおかしくはない。
知られたくないとも、思ってはいないのだから。
「それじゃあ、私の気が済みません」
が、坂崎音羽という少女は、それで納得してくれるタイプではなかった。
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