2-7
「遠慮なく食べてね」
「は、はい。いただきます」
社長の奥さんにぎこちなく笑みを返してはみたものの、正直ちゃんと味がわかるか自信がない。
過去に何度か、こうして社長の家で食事をしたことはあるが、そのときとは緊張感が違う。
以前は社長に誘われてという形だったが、今回は一人娘である音羽ちゃんの招待だ。
「仕事のあとだ。たくさん食べられるだろう、な?」
「えっと、頑張ります」
社長もにこやかに語りかけてくるが、今日の件を知ったときはどんな反応をしたのだろうか。
仕事中にやってきて肩を叩かれたときは、生きた心地がしなかった。
出題範囲を教えるだけという話だったはずなのに、どうして夕食までご馳走になることになったのか。
すべては今日の主催である、音羽ちゃんの提案だ。
「反応が薄いですね。もしかして、味付けが好みではありませんでしたか?」
「そんなことはないよ、うん。美味しいと思う」
すました顔で話しかけてくる胃痛の張本人に答え、頷きながら食事を続ける。
「それはなによりです。実はこの料理、半分くらいは私が作ったんですよ」
「……そ、そう」
俺の答えに、彼女は得意げとも勝ち誇っているとも取れる笑みを浮かべる。
間違って『普通だ』などと答えなくて良かったと、心から安堵する。
実際、味についてはなんの問題もないと思う。
少なくとも、俺がいつも作っているレシピ通りの料理よりは、特別な感じがした。
娘の料理を褒めちぎる社長を横目に、アパートにいるアンジェのことを考える。
今日のことは事前に説明してある。
今頃はきっと、昨日用意しておいたカレーを食べているはずだ。
トッピング用のカツも用意しておいたのだから、文句はないだろう。
どちらかと言えば、ちゃんと鍋を温められるかどうかだが。
『温めるくらいなら、私にもできます』
などと自信満々に言っていたが、果たして……。
「どうやら桜葉君はお腹がいっぱいのようだ。となれば、残りはすべて父親である私が食べよう」
「これ以上無駄に太らないよう、お父さんは節制するべきでしょう。それに、桜葉さんはもうおかわりが不要だなんて一言も言ってないし」
父と娘の他愛のない会話に、無理矢理俺を巻き込まないで欲しい。
そして父娘そろって、どうなんだとこっちを見ないで欲しかった。
見た目はどちらかと言えば母親似だが、こういうところを見ると父娘だとよくわかる。
「それにしても、普段は料理なんてしないのに、意外と器用ね。これなら、花嫁修行の必要はないかしら」
「これくらいはできて普通だと思うけど。お母さんの真似をしただけだし」
感心したように頷く奥さんに、音羽ちゃんは肩を竦める。
真似をしただけでこれだけ安定した料理が作れるのなら、もう少し誇ってもいいと思う。
「いやいや母さん。花嫁修業なんて言葉はまだ早いだろう。具体的には十年以上早い」
「お父さんには悪いけど、私はそんなに待つつもりないから」
「ど、どういう意味かな? お、音羽?」
「子離れは早めに済ませておいて、という話よ」
「音羽⁉」
普段の社長からは想像もできない姿に、どう反応していいかわからなくなる。
正解がわからないので、我関せずと食事を続ける。
「だから、普段から言ってるでしょ。一人娘だからって甘やかしすぎないで。将来苦労するのは、甘やかされることに慣れた本人なんだから」
厳しすぎる気もするが、甘やかしすぎるのは良くないという意見は正論だと思う。
問題があるとすれば、それを父親に向かって言っているのが当の娘だという点だろう。
「……甘やかされてくれても、まだいいじゃないか」
「限度があるって言ってるの」
寂しそうに肩を落とす社長に、音羽ちゃんは容赦なく言い放つ。
これは反抗期と言うのだろうか、などとどうでもいいことを考えながら、食事を終えた。
「今はお客様なんだから、座っていてくれていいのに」
「いえ、ご馳走になった分、片付けくらいはしないと気が済まないので」
奥さんとキッチンに並び、洗い物を手伝う。
最初は音羽ちゃんもやろうとしていたが、三人では効率が悪いすぎるので譲ってもらった。
効率と言われてすぐに引き下がるあたりが、実に彼女らしい。
社長は週末の特権として、すでに晩酌を始めていた。
洗い物を済ませたところで、ようやく本題に入れる。
「では桜葉さん、続きは私の部屋で」
「……待った。リビングでするんじゃないのか?」
さらりと告げられた音羽ちゃんの問題発言に、軽い頭痛を覚える。
そして今の椅子が倒れるような音は、社長が驚愕に立ち上がった証拠だろう。
振り返るまでもなくわかる。
「ここでは勉強に集中できそうにないですし。なにか問題でも?」
「待ちなさい音羽。勉強をするならここでできるだろう? な?」
「お父さんの晩酌を邪魔したくはないから」
「それなら心配ないぞ。晩酌はもう終わりにする。これでいいな?」
「お父さんの楽しみを奪うのは気が引けるから、遠慮しないで」
「き、気持ちは嬉しいが……うーむ」
社長が助けを求めるように奥さんを見るが、奥さんは娘の味方なのだろう。肩を竦めて苦笑するだけだ。
「他に問題があるとでも?」
「それは、うむ……ハハハ」
圧倒的不利を悟った社長は、矛先を俺に変えた。
肩を力強く掴み、引きつり気味の笑顔で圧力をかけてくる。
「わかっているね?」
「はい、大丈夫です。いやホントに」
「信じているよ、桜葉君」
「……はい」
社長の心配は完全に杞憂なのだが、父親なら当然なのだろうと思う。
巻き込まれるこっちとしては、ひたすらに胃が痛い。
「お父さんの言い方だと、桜葉さんを信じていないように聞こえるのだけれど」
「そ、そんなことはないぞ? 彼のことは信じている。な?」
「それは、はい」
社長の言葉に嘘はない。そうでなければ、俺を雇ったりしてくれなかったはずだ。
ただ、それとこれとは話が別、という気もする。
「なら、なにも案じる必要はない、ですよね?」
結局、それが決定打となった。
困らせてはダメよ、と笑う奥さんに見送られ、音羽ちゃんの部屋がある二階へと向かった。
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