2-5

 仕事が終わり、作業着から私服に着替えて出た俺は、すぐ音羽ちゃんに捕まった。

 幸いにも、その瞬間を他の社員に目撃されることはなかった。

 もしかしたら、彼女もその点は気を遣ってくれたのかもしれない。

「……いきなりか」

 珍しく通知のあったスマホを取り出し、メッセージの送り主を見てため息をつく。

 予想はしていたが、やはり音羽ちゃんからだった。

「予定は金曜日か。まぁ、そうなるよな」

 社長や奥さんにはこれから相談するそうだが、おそらく彼女の要望通りにいくだろう。

 事情を知った社長と会うのが、今から億劫だ。

 基本的にはいい人で、かなりお世話にもなっているが、一人娘が絡むと話は少し違ってくる。

 そこは音羽ちゃんと奥さんがうまく説得してくれると期待しておこう。

 個人的に問題なのは、音羽ちゃんに連絡先を知られてしまったことだ。

 就職して以来、そういう話題にならないよう避け続けてきたのだが、ついに連絡先を握られてしまった。

 当然、俺のスマホにも彼女の連絡先が登録されている。

 普通なら喜ぶところかもしれないが、俺としては悩みの種以外のなにものでもない。

 勉強を教えるだけならともかく、連絡先まで個人的に交換していると社長が知ったらどうなるか。

 やはり、音羽ちゃんと奥さんに期待するしかない。

「それにまぁ、考えようによっては……」

 俺にとっても都合がいいことも、一つくらいはある。

 そう思うことにして、顔を上げた。

「お疲れさまでした」

「……なんで、いる?」

 さも当然のように姿を現したアンジェを半眼で見やる。

「部屋に戻ったんじゃなかったのか?」

「はい、一度はそうしました。でも、特にすることもなかったので。遠目にですが、孝也さんが働いている姿を観察していました」

 なんの悪意も感じさせない笑みに、あるはずのない頭痛を覚える。

「面白くないだろ、そんなことしても」

「こういうのは、面白いかどうかではないと思いますが」

「……他にやること、ないのかよ」

「今のところは、ありませんね。孝也さんが願いを決めてくれないと」

 悔しいが、言い返せなかった。

 諦めるという選択肢は、きっとないのだろう。

 面倒くささに頭を掻きながら、止まっていた足を動かす。

 そしてこれまた当然のように、アンジェは俺の隣に並ぶ。

 向かう先も、同じだ。

「一応確認するけど、今日もうちに泊まるつもりか?」

「他に行く当てがないので」

「天界とやらに連絡、つかなかったのか?」

「あ、それはなんとかなりました。でも、手続きの関係で支援を受けられるのは、まだ先になりそうで」

 ずいぶんと簡単に連絡がついたものだな。

 どこまで信じていい話なのか、さっぱりわからないが。

「ですので、申し訳ないですが、もうしばらく、お世話になります」

「……最速でなんとかしてくれ」

「はい……と言いたいところですが、ぶっちゃけた話、一緒にいないと願いが叶えられないんですよね。だから結局、支援を受けられてもあまり状況は変わらないかと思います」

「……本気で言ってるのか?」

「はい」

 これ以上ないくらいの笑顔で頷くアンジェに、無言で顔をしかめる。

 せめて、寝泊まりする場所だけでも別に確保して欲しいものだが。

「あ、いい匂い」

 こうもマイペースな姿を見せられると、自分にとって都合の悪い想像しかできなくなる。

 俺の悩みなどお構いなしなアンジェは、夕暮れの商店街を興味深そうに見回していた。

「……私の顔に、なにか?」

 横目に見ていた俺の視線に気づいたアンジェが、首を傾げて覗き込んでくる。

 誤魔化そうかとも思ったが、考え直す。

「今日はその、どうだった?」

「普通だったと思いますが」

「危ないこととか、なかったのか?」

「えぇ、なにもないですよ」

 嘘をついているような笑顔には見えない。

 それに、こんな質問をされて咄嗟に隠す必要性も、普通は考えない。

 なら、本当になにもなかったと思っていいだろう。

「私のこと、心配してくれるんですね」

「俺が心配する理由がない」

「では、どうしてホッとした顔をしてるんです?」

「そう見えるか?」

「あ、今は違います。なんか、変な顔です」

 そこはせめて苦虫を噛み潰したとか、マシな言いようがあるだろう。

「ありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから」

「だから別に……もういい。好きに勘違いしてくれ」

「はい、そうします」

 この自称女神が相手では、皮肉も通じないのではないかと思い始めていた。

 どちらにせよ、この話題はもういい。

 たまたまか、それとも呑気すぎて気づいていないのかはわからないが、何事もなかったのなら、それで。

「……まさか、だな」

 もう一つの可能性を、鼻で笑い飛ばす。

 彼女が女神だから例外という、馬鹿げた可能性を。

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