2-4

 学校の制服に身を包んだ少女の凛々しい視線が、少しだけ低い位置から向けられる。

 パッと見の印象は、非の打ち所がない優等生。

 艶やかな髪は背中に届くほど長く、その優等生然とした容姿を際立たせている。

「なにをしているのですか?」

「いや、なにも」

 どうしたものかと頬を掻きながら、彼女の視線が俺の背後に注がれたことに気づく。

 まずい、なんてものじゃない。

「……なにも、ですか」

 心なしか鋭くなった視線が俺の眉間に突き刺さる。

「まだお仕事中のはずですよね」

 すぅっと目を細め、小首を傾げる。

「まさかとは思いますが、サボりですか?」

「それこそまさかだ。違うって」

「ですよね。勤務態度は非常にいいと聞いていますし」

 彼女は僅かに左腕を上げ、その手首につけている腕時計を見る。

「この時間でしたら、小休止の最中といったところですか」

 ちなみに腕時計は、少し前に入学祝と誕生日プレゼントとして、父親から送られたものだ。

 そして彼女の父親は、俺が務める坂崎工務店の社長である。

 彼女は坂崎さかざき音羽おとは。社長が溺愛する、たった一人の娘だ。

「あぁ、そうなんだ。でもそろそろ時間だから戻らないといけなくて」

 だからこの話は終わりにしようと頷き、工場に戻ろうとする。

「こちらの女性はもしかして、桜葉さんのカノジョさんですか?」

 だがそれを許してくれるほど、彼女は大人しい性格でもなく、物怖じするタイプでもない。

「誤解しないでくれ。俺はなにも――」

「とても綺麗な方ですね」

「いや、本当に誤解で――」

「紹介してくれないのですか?」

「いやいや、わざわざ紹介するような――」

「必要はない、と?」

「…………えーっと、説明、させてくれる?」

「どうぞ」

 進学したばかりとは思えない、なぞの迫力に負けた自分が情けない。

 彼女と知り合って三年ほど経つが、どうにも頭が上がらないというか、言いくるめられることがよくある。

 社長の一人娘だから、というわけではないのだが、下手に誤魔化そうとしても先回りされて、退路を断たれる。

 頭の回転の良さもあると思うが、社長に溺愛されているとは思えない、その厳しい性格が最大の要因だろう。

 成績も優秀で、性格も生真面目かつ厳格。

 印象だけではなく、まさに優等生を体現するのが、この坂崎音羽という少女だ。

 そんな彼女にアンジェといるところを見られてしまったのだから、まずいとしか言いようがない。

 おまけに、路地裏に二人でいたところをしっかり見られている。

「彼女はその、ちょっとした知り合いで、話をね、してたんだ」

「隠す必要はありませんよ? 恋人なのに違うと紹介するのは、失礼かと」

「本当に違うんだ。そこだけはね、信じて欲しい」

「……わかりました」

 アンジェに一度視線を流したが、音羽ちゃんは頷いてくれた。

 どんな状況なのかを全く理解していないアンジェは、ありがたいことに黙ったままだ。

 できることなら、そのまま無言で立ち去ってくれるといいのだが。

「それじゃあ孝也さん、私は失礼しますね」

 当然、空気など読めるはずがないアンジェは、流暢な日本語で俺の名を呼び、笑顔を振りまく。

 幸せがどうとか言っているくせに、言動の悉くが俺の平穏を脅かすのはなぜなのか。

「孝也さん、ですか」

「違う。特別な意味はない」

 そして、なぜか薄い笑みを浮かべている年下の少女に、嫌な汗がドッと噴き出す。

「では、お仕事頑張ってください」

 幸いにもアンジェは長居をしたりはせず、宣言通りに立ち去ってくれる。

 それだけは、褒められる点だ。

「またあとで」

 無自覚に特大の爆弾を放り込んでいかなければ、だが。

 なんの重圧も感じていないような足取りで去っていくアンジェの後ろ姿を、音羽ちゃんと見送る。

「……じゃあ、仕事があるんで」

「えぇ、一緒に行きましょう」

 逃げるように歩き出す俺の隣に並び、音羽ちゃんが軽やかな声で答える。

 不機嫌に問い詰められるほうが、よっぽど気楽だ。

「…………」

「…………」

 黙して語らぬ笑顔の重圧に、胃が軋む。

「……あの、ご相談が一つあるのですが」

「なんでしょう?」

「説明が必要なら、あとでちゃんとする」

「それは楽しみですね」

「だからさ、できればこのことは内密にしておいてくれると……」

 助かるのだが、と横目で音羽ちゃんを見る。

「――えぇ、いいですよ」

 最高に最恐な笑顔が、そこにはあった。

「ところで話は変わりますが、近々テストがあるのはご存じですよね」

「あぁ、そんな時期か」

 ということは、普段より少し早く学校から帰ってきたのも、それが理由か。

 それさえなければ、こんなタイミングで出くわしたりしなかったのに。

「進学してから最初のテストです」

 要求の全ては語らず、含みを持たせた視線を投げかけてくる。

 とにかく、彼女がなにを言いたいのかはすぐに理解できた。

「前も言ったけど、音羽ちゃんに教えるほど、勉強は得意じゃないぞ」

 大学へ行かず、すぐに就職したことも知っているのだから、今更言うまでもないはずだ。

 そもそも、過去にも何度か同じような頼みを断っている。

「でも、うちの学校を卒業できる程度の学力はあるんですよね?」

「卒業するだけなら、だよ」

 偶然にも、彼女が通っている学校は、俺が数年前に卒業した学校でもある。

 音羽ちゃんの学力ならもっといい進学先があったはずだが、彼女はそれを選ばなかった。

「丁度いいことに、いくつかの教科で担当の先生が桜葉さんと同じで」

「って言っても、俺のときとはテストの内容が違うだろ」

「えぇ。ですから出題の傾向などを教えてもらえたらいいな、と。それくらいなら、どうです?」

「……それくらいなら、まぁ」

 どれくらい試験対策になるのかはなぞだが、彼女がそれでいいと言うのなら、俺としては助かる。

 断ることは不可能なのだから、意味があるかどうかは重要じゃない。

「では、詳しい話は仕事が終わったあとに、また。頑張ってくださいね」

 彼女はそう言って、どこか楽しげに笑いながら、社屋と繋がっている自宅へと向かった。

 去り際の『また』という部分に、悪戯めいたものが多分に含まれていたが。

「……いきなり面倒なことになりつつあるな」

 もはやため息すら出ないと肩を落としながら、仕事場へ戻った。

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