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それはまるで、時間が停止したと思えるほど、見事な静止っぷりだ。
「…………あ、あの、おかしいです」
ギギギと音でもなりそうなぎこちない動作で、彼女が俺を見る。
「なにもおかしくないだろ」
「おかしいですよ。だってここ、と、トイレが一緒で……だ、脱衣所もないです」
「そりゃあ、そういうタイプだからな」
俺もこの部屋に住むようになって始めて使うが、特に不便は感じていない。
社員寮として格安で住めているのだから、文句などあるはずがない。
「どどど、どうすればいいんですか?」
「どうって?」
「着替えに決まってるじゃないですか! こ、この中で着替えたりしろって言うんですか?」
「別にその中じゃなくてもいいけど。俺も一人のときはここで脱ぐし」
「あ、あなたの前で裸になれと⁉」
「見ないようにするって。なんなら、あっち向いておくから」
「…………」
言葉にしなくてもわかる。
彼女の細くなった視線は、微塵もこっちの言い分を信じていないと。
「見られるのが心配なら、中で脱げば済む話だろ」
「そ、それじゃあ濡れちゃうかもしれないじゃないですか。だいたいこの浴室のドアも、よく見れば透けて見えますし」
「そんなの、見えてもシルエットと肌っぽいなにかだけだろ。見えてるうちには入らないって」
「入ります! ばっちりじゃなくても、あなたが私の裸を妄想するには十分なものが見えます!」
こいつ、とうとう言い切った。
疑われただけでも若干ムッとしていたが、さすがにそこまで言われると頬が引きつる。
「シャワーを諦めるか、見られるつもりで浴びるか、好きにしろ」
「ほらやっぱり! 見る気満々じゃないですかぁ!」
「そう思うなら諦めろ」
「そ、そんなの……こ、これでも女神ですよ? 身体は清潔にしておかないと、いろいろとその……」
正直、ここまで意地になる必要などないのだが、引き下がったら負けを認めることになる気がした。
「そもそも、女神なのにシャワーを浴びる必要、あるのか? 神様的なものなら、平気なんじゃないのか?」
思い付きの意地悪な質問だが、彼女は反論できないのか、困ったような顔になる。
「それと、トイレも。女神さまもするのか?」
我ながら最低な質問を畳みかけているとは思うが、言ってしまったものは仕方がない。
「う、うぅ……そ、それは」
「どうなんだ?」
「て、天界規則違反及びエンジェル協定により、それにはお答えできません」
追い詰められているのか、彼女はわけのわからないことを言い出した。
「規則だか協定だか知らないけど、女神なのか天使なのかくらい、ちゃんと統一しておけよ。設定がブレてるぞ」
「それには事情があるんです。説明はできませんが、とにかくそういう決まりがあるんです」
シャワーやトイレが必要かどうかという点には答えず、彼女は頬を紅潮させてまくしたてる。
「ともかく、女神の生態についてはお答えできませんが、私個人としては一日に一回は最低でも身体を清めたいんです。あ、汗臭くなんてなりませんが、気分の問題で!」
女神だとしても、女性であることに変わりはない。シャワーを浴びたいという気持ちは、男女関係なく、俺にもわかる。
「だから好きにしろって。ほかに部屋はないんだから、我慢しろとしか言いようがない」
「百歩譲ってトイレはまぁ、我慢します。でも、着替えは……せめて、シャワーを浴びている間は、どうにかなりませんか? 不躾なのは承知でお願いします」
そこまで純粋に頭を下げられると、こっちとしてもふざける気にはなれない。
が、どうしろというのか。
「誓って見ないし覗かないから、それで我慢してくれ」
「そういう男性の言葉は地上で最も信じてはいけないものだと、先輩にアドバイスされていて……」
ろくでもない先輩だと言ってやりたいが、言い分がわからないでもない。
わからないでもないが、この状況で彼女の望みを叶えるのなら、俺が部屋を出るしかなくなる。
彼女がシャワーを浴びる時間がどれくらいかはわからないが、十五分程度な俺より早く済むということはないだろう。
わざわざそこまでする気になれないというのが本音だ。
彼女のためにそこまでする義理は、はっきり言ってない。
「…………」
ないのだが、本当に困っている彼女の視線に、根負けしてしまう。
「わかったよ。ベランダに出てる。それでいいだろ?」
「あ、ありがとうございます。さすがは孝也さんですね」
「はいはい」
最大限の譲歩をした俺は、スマホを片手にベランダへと出る。
四月の夜は、まだ冷える。
だが、ほどよい夜風は気持ちよくもあり、少しヒートアップした思考を冷やすにはちょうど良く思えた。
「――――は?」
そんな俺の背後で、ドアの鍵が閉まる音が鳴った。
思わず振り向いた俺の視界は、当然のように引かれたカーテンに遮られる。
当たり前のように行われた無礼な蛮行に、またしても頬が引きつる。
彼女が気にしていた点を考慮するなら、仕方のないことだと言える。
俺の心情がどうかという点を考慮しなければ、だが。
そしてなにより、彼女の性格なのか、閉ざされたはずのカーテンには、僅かながら隙間があった。
部屋の中を覗こうと思えば、覗ける程度に。
「……どこまで迂闊なんだか」
こちらから見えるとは思っていない自称女神は、今まさに上着を脱ごうとしていた。
その迂闊さは、もしかしたら試されているのではないかと思えるほどだ。
下着が見えてしまう前に背中を向け、夜空を見上げる。
どうやら今日は満月らしい。
こんな風に夜の空を眺めるのは、ずいぶんと久しぶりだった。
感傷的な気分から目をそらすように、スマホへと視線を下げる。
「……里帰り、か」
おかしなことがあったからだろうか。
普段ならもっと迷ったであろうメッセージに、俺は返信した。
週末に顔を出す、と。
「疲れる週末になりそうだな」
メッセージが無事届いたことを確認した俺は、ぼんやりと月を眺める。
異常な慌ただしさに見舞われた、この数時間を思い返しながら。
期待よりもはるかに大きな不安を、ため息にと共に、吐き出した。
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