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「ちょ、ちょっと待ってください! 困ります! 本当にそれは困ります!」
「なんでもいいんだろ? それとも、脱童貞は例外になるのか?」
「いえ、例外にはあたらない願いではありますけど、でもあの、ら、ランプの力を使うほどの願いではないといいますか……」
冗談を冗談と理解していない彼女は、本気で焦っているようだ。
それはそれで、自分に対する彼女の認識がどうなっているのか不安になるが、今は無視する。
「脱童貞から始まる幸福もあるかもしれないだろ」
「ありえない……とも言い切れませんが、ちょっと落ち着いてください! あ、謝りますから!」
彼女に比べればこっちはだいぶ落ち着いているし、むしろ落ち着くべきは彼女のほうだ。
これ以上続けるとろくなことになりそうもないな。
「いや、本気じゃないから。そんなこと、わざわざ願うかよ」
盛大にため息をついてみせ、冗談だったとアピールする。
「…………本当ですか?」
「当たり前だろ。そんなことで幸せになれるなら……いや、どうでもいい」
愚痴のように出かかった言葉を呑み込み、首を振る。
まだ疑いの眼差しを向けてくる彼女に両手を掲げて、降参だと示す。
いっそ罵りでもしてくれたほうが気楽だった。
自分からけしかけておいてなんだが、どっと疲れた。
「……安心しました。もし本気で願われていたら、私……」
どうするつもりだったんだ、とは訊かなかった。
どんな答えが返ってきても、余計疲れるに決まっている。
「で、なんだっけ」
気まずい沈黙が流れてしまう前に、頭を掻きながら話を戻す。
「あぁ、どんな願いでもって話だったか」
「はい。ご理解いただけましたか?」
「それなりには理解できたと思うけど……それってさ、なんかこう、代わりになにかを捧げろ、みたいなものはないのか?」
「ありません」
「本当に都合がいいランプだな」
「特別なので」
そんなものか、と納得するには旨すぎる話だが。
「納得いただけたところで、早速ですが、一つ目の願いをどうぞ」
彼女も気持ちを切り替えるように笑顔を浮かべ、ランプをテーブルの中心へと移動させる。
「って言われてもな」
「そうですね。ならまず、無理そうな幸せを願ってみてください。そのほうが、ランプの凄さを実感していただけるはずです。一度体験してみれば、私の話が本当だとわかりますから」
確かにそうかもしれないが、問題はそこではない。
「さっきも言ったけど、特にないんだよ、そんなもの」
「……やっぱり、まだ信じられませんか?」
持ち前の明るさだけでは隠せないほど、彼女の表情に影が差す。
「さっきもチラッと言ったけど、正直、信じる信じないの話じゃなくてさ」
本当にないんだ、と彼女に笑ってみせる。
「そ、そうですよね。いきなり言われても、悩みますよね」
なぜか慌てた様子で先延ばしにしようとする彼女に、今度は首を振ってみせる。
「そうじゃない。一晩考えても、一週間考えても、答えはかわらないって話だ」
「…………」
「君の気が済むならと思って話は聞かせてもらったけど、やっぱりさ、そこは変わらないんだ」
熱さを忘れてしまったカップに視線を落とす。
「叶えて欲しい願いなんて思い浮かばないし、たぶん、仮にあったとしても、望む気にはなれない」
ましてやそれが、自分に幸福をもたらす願いだというのなら。
「そもそも、そんな施しみたいなものを受ける理由がない」
一度言葉を区切り、少女の揺れる双眸を見返す。
「どうして、俺なんだ?」
何度目になるかわからない質問を、正面から投げかける。
「……すみません」
彼女の答えも、変わらない。
理由は明かせないと、目を伏せる。
まぁ、もし理由がわかったとしても、彼女の話を全面的に信じられるかどうかは怪しいところだ。
だから今のは、意地の悪い質問というやつなのだろう。
だが、これで諦めてくれるのならそれでいい。
「あなたは……」
諦めるという言葉を知らないのか、こっちの意図などお構いなしに、彼女は顔を上げる。
「……幸せに、なりたくないんですか?」
「さぁな。よくわからない」
イエスかノーで答えられるはずの質問だが、嘘でも誤魔化しでもなく、本当なのだから、そうとしか答えられない。
「…………」
悲しみと痛みに耐えるような少女の表情が、いつかの記憶と重なる。
言葉のニュアンスは違うが、あの時もこんな顔をされた。
「とまぁ、そういうわけだ。悪いけど、諦めてくれ」
さすがにここまでどうしようもない相手なら、時間の無駄だと理解してくれるだろう。
彼女にも事情があるのだろうが、これで終わりにするのがお互いのためだ。
「できません」
にも関わらず、彼女は食い下がる。
「どうしても、あなたの願いを……あなたを幸せにしたいんです」
テーブルに両手をつき、身を乗り出して宣言する。
状況が状況なら、愛の告白にすら思える宣言だ。
本当に、わからない。
どうして俺なのかも。
彼女がここまで必死になる理由も。
「そうじゃないと私、帰れない」
なにより、彼女がなにを考えているのかが。
もしすべてが、なにかしらの善意からきているのだとしたら、これ以上に厄介なものもない。
行き過ぎた善意は、悪意よりもはるかに質が悪い。
「――君は」
困り果てた末、投げかけるように漏らした俺の声に、
「…………はぅ」
気が抜けるような、すべてをぶち壊すような、女神の空腹を告げる音が、重なった。
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