美味とは幸福に通ずる(誠の友情は真実の愛より難しい)

 かつて旧時代では、未来の食事はキューブや流動食に変化するという予測があった。

 中には一日分の栄養素をふくんだ吸着シートを舌に乗せるだけで、食事が終わってしまうものだと。

 不足分の栄養をカプセルで補っていた旧時代において、それは果たして理想だったのか。

 

 スメラギ・ことに難しいことはわからない。

 ただおにぎりがしく、しるほうじゅんさがぞうろっわたる。この幸福感が流動食でまかなえるとは思えなかった。

 結局、大戦を経た後でも食事風景に変化はない。あるとすれば素材の調達方法と育成くらいだろう。

 

 なお流動食に関しては歯のすい退たいと消化機能の低下を招くと判断、キューブで問題解決できるかどうかの矢先で技術的問題が発生。

 開発コストと工場の生産ライン確保が、現状では難しかったらしくおくらり。

 発展した未来を予測――それは現時点での資源や土地が「そのまま」流用できるかどうかにかかっているのだろう。

 

 世の中というのはほんの少しでくずれてしまう。

 それを解決するのが科学など学問的技術だが、必要な人力と時間がぼうだいだ。

 何千年という積み重ねが、今の生活を支えている。忘れてはいけない事実。

 

 しかし男子高校生にとって、そういったややこしい内容はまつな問題だ。

 おなかがすいた。なにか食べたい。りょうの学食を訪ねたら、おにぎりがわれた。

 それだけで幸せなのだ。そこにぶたにくの野菜いためなど出されてしまえば、しんすいすることちがいなし。

 

「美味しいなぁ」

 

 みしめるようにつぶやく。現在のかれに難しい内容を理解する力はない。

 思考全てが目の前の食事をたんのうするために使われており、じゅうそく感も科学的に説明できることなど無意味。

 わかめととうの味噌汁に、梅干しとさけのおにぎり。そして野菜炒め。あまい卵焼きも追加され、食後にはあんにんどう

 

「ご飯最高」

 

 なんかもう友情とかどうでもいいや――まで考えているかは不明だが、心は確実に満たされていた。

 たとえ野菜炒めに使われている豚肉は遺伝子えと過密飼育だとしても、鮭が全てようしょくあぶらまんさいでも。

 められた愛情と積み重ねられた料理のうでが、未来の子供をやしている。

 

 温かい食事。そのあいまいかつ適当すぎる言葉を疑う者は多い。

 それでもがおで食べられるという現象は、幸せと名乗るにはじゅうぶんだろう。

 こうして今日もアミティエ学園の生徒達は、寮の美味しい食事を思う存分味わうのであった。

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