クジラの歌もきこえない
「風邪ですね。インフルエンザじゃないです」
鼻に綿棒を突っ込まれた衝撃の余韻で涙目になりながら宣告を受ける。
雨にまともに当たって体も拭かず寝て、強烈な寒気で目を覚ました。多少の風邪なら市販薬で治すが、しばらく様子を見ても熱が下がらなかったので、半年ぶりぐらいに病院に行った。念のためインフルエンザの検査も受けたが、ただの風邪だったようだ。
「お大事に」
1週間分の薬をもらい、家に戻って再び布団にもぐりこんだ。早速バイト先に電話すると、熱が下がるまでしばらく休んで、完治するまで絶対に来ないよう念を押された。受験シーズンが近づく中、生徒にうつされたら保護者が黙っていないのだろう。塾長の声には、鬼気迫るものがあった。
河野にしばらく休むことを伝えると、大学の友達からちらほらとメッセージが送られてきた。特にサークルにも所属していないのに気にかけてくれる人がいるのは嬉しいことだなと思う。こういうとき必ず何か送ってきそうな伊藤からは、俺が怒鳴ったあの日以来なんの連絡もない。
志保さんからの新着メッセージは、他のメッセージの下にどんどん埋もれていった。
俺はスマホを手放して、頭から布団をかぶる。熱が出ていると、眠気が涸れることなくあふれてきて、いつまでも寝ていられそうだ。
主人公の持っていた懐中時計が、大理石の床に音を立てて落ちて割れる。スクリーンいっぱいに長針と短針がぐるぐる回っている時計が何個も映った。
「この映画、微妙っすね」
俺が小声でつぶやくと、隣にいた志保さんが笑い、「確かに」と言った。
「志保さんが観たいって言ったんじゃないすか」
「でも」
映画館には俺と志保さんしかいなかったので、二人であれこれ文句を言いながら映画を観ていた。
「この主人公、知ったような口聞いててなんも分かってないし」
「はは 陸くんと一緒だね」
「え?」
その言葉と同時に、スピーカーから銃声が聞こえた。驚いて前を向くと、スクリーンは真っ白になっていた。
志保さんも、俺の隣からいなくなっていた。
そこで目が覚めた。
布団から体を起こし、首をぐるぐる回す。
俺って、結構根に持つタイプなんだな。
立ち上がって冷蔵庫を開け、ペットボトルから水を飲み、いつから冷やしているのかわからないほどずっと冷蔵庫にある、熱さましのシートを額に貼る。
「ふおお」
刺激的な冷たさに思わず声が出る。立ったついでにトイレに行ってから、またよろよろと布団にもぐりこんだ。
そこそこの件数のメッセージを受信したスマホの充電は、あと20%程。メッセージアプリを開くと、トークの1番上に苦手な女子大の人からのメッセージがあった。読んだ通知が相手に届かぬよう、本文は開かずにプレビュー画面から見る。「長文失礼します」から始まっているので、長文なのだろう。塾で俺が休みなのを知ってお見舞いのメッセージでも送ってきたのだろうか。
かなり長い時間眠っていたようで、外が暗い。ただ、まだまだ眠れる。食欲もあまりないので、買い出しに行く気にもならなかった。
20件ほど溜まっていた塾のグループトークを開いて消化し、布団を頭までかぶる。
『志保さん:返信ないけど、大丈夫?寒いから気を付けてね』
そんな通知が来たので、スマホを置いて、目を閉じた。
こうやって寝て起きてを繰り返したら、夢も現実もわからなくなりそうだ。
「はあ 暑っ」
ヘルメットに固定されていた髪を風にほどいて、志保さんは言った。
「だいぶ遠くまで来ましたね」
観光案内所でレンタサイクルを借り、街の中心部を離れて海岸沿いまで二人で走ってきた。空が高く、波が光っている。
「電動じゃなくても意外と遠くまで来れるんだね」
「そこが好きなんですよね」
「もっと遠くまで行こうよ」
再び、目が覚める。2回目になるとさすがに途中で夢だと気づいたし、自分の執念深さにちょっと引く。確かにツーリングに行こうって話はしてたけど。
時間を見るためにスマホの電源ボタンを押すと、河野から『そういえば、しほさんとはどうなの?』というメッセージ通知が来ていた。俺は深くため息をついて、アプリを開く。暗がりになれない目を擦りながら、メッセージを送った。
『もうむり』
気持ちが落ち込んで、自暴自棄になりそうだ。俺は、こんなにネガティブな人間だったっけ。
志保さんがいなかったころに戻りたい。
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