1-9
塾のバイトがない日には、大学図書館の受付のバイトをしている。短時間しか働けないうえに、所詮学内バイトなので時給もよくない。ただ、手が空いているときは自習してもいいので、バイトしながら課題を片付けることができるという点ではお得だ。
入り口の自動ドアが開く。入ってきたのは、河野だった。河野は俺と目が合うとあっという顔をし、手を体の横にぴったり付けて深々と礼をした。俺が代わりに派遣バイトに入った日から、このノリを続けている。
「謝罪会見やめろ」
俺のいる受付カウンターへ近づいてきた河野に向かって言うとぶっと吹き出したので、静かに、と指を立てる。
「てか、聞いたぞ」
「何?」
小さくしていた声をさらに低めて、河野が言った。
「お前あの相席居酒屋で会った人と連絡とってるらしいな」
「えっ?なんで知ってるの」
「美咲さんから聞いた」
美咲さんというのは、あの日志保さんと相席居酒屋に一緒に来ていた女の人だ。河野がその人と連絡を取っているのは、河野本人から聞いていた。
美咲さんからということは、志保さんが、俺から連絡が来ていることを話したということか。
「ああ そうなんだ」
少し引っ掛かりながらも、ひとまず受け流した。
「お前、あの人に急に電話したりしてるらしいな」
「えっ そこまで知ってるのかよ」
「聞いた聞いた やるじゃん 狙ってんだな」
「ははは」
河野の言葉が、徐々に耳に入らなくなってくる。
志保さんは、俺との間にあったことをそこまで話してるのか。
「あの人も綺麗だったよなー」
その言葉に、はじかれるように顔を上げた。胸ポケットに入れていたスマホが落ちて、木製のカウンターにぶつかる音が、フロア中に響いた。
「すいませんっ」
「大丈夫か?」
硬い物同士がぶつかる鋭い音に驚いて、心臓が早鐘を打っている。
「大丈夫」
鼓動が喉元にまで達しているような苦しさを感じた。
「じゃあ、また」
「うん またな」
河野がエレベーターに乗って2階に上がるまでを、電光表示を追って見ていたが、エレベーターが1階に戻ってきてからも、ずっと胸の鼓動が治まらなかった。
いつもは心地よかった図書館の静けさに、今日は気持ちが落ち着かない。冷たい水で満たされた水槽の中で、息ができなくなっていくような感覚だった。
バイトが終わって図書館を出ると、外は大雨になっていた。雨が降ると、最寄り駅までのバスは普段は乗ってこない会社員や高校生でごった返し、とても落ち着いて乗れない状態になる。雨の予報は知っていたから、我慢してぎゅうぎゅう詰めになりながらも乗って帰る予定だったが、今日はそんな気分にもならず、ずぶ濡れになりながら駅までの道を辿った。駅に近づくにつれコンビニも数軒見えてくるが、いまさら傘を買っても遅いと思い立ち寄らなかった。
俺が志保さんと会った日のことも、電話をかけた日のことも、誰にも知られていないことだと思っていた。
会社の同僚なら無理もない。日常のことを話すなんて当然だろう。
俺がそれを、勝手に二人だけのことだと思い込んでいたんだ。
伊藤や河野の言葉に動揺したのも、それが原因だったんだ。俺と志保さんしか知らない部分に、他の誰かが踏み込んできたから、かっとなったり驚いたりしたんだ。
前に進むたびに、雨足はどんどん強くなり、靴の中まで水が染み込んでくる。秋の夜の寒さに、俺は身震いした。かつて電話しながら歩いた道は、こんなにも長い。
「俺と志保さん」なんて言っても、まだ俺はあの人のことを何も知らない。1回の電話と、数回のメッセージと、出会った日、それだけ。何の奥ゆきもない薄っぺらな関係だ。バイトと授業をこなすだけの暇な大学生には長い時間に感じても、忙しく働いている会社員にとっては、日々関わる多くの人の中の一人で、仕事の休憩時間の話のネタぐらいの存在だったんだ。俺があの日した電話も、笑い話に消化されてしまったんだろう。
もうやめよう。楽しかったのは、俺だけだったんだ。
頭の中の履歴を削除していく。志保さんが観に行きたいと言っていた映画、好きなバンドのPV、初心者でも走れるツーリングコース、この辺りで一番高いタワー。どれもこれも、メッセージ上で話しただけのこと。それらに思い出なんてなく、志保さんを離れると、ただのものになってしまった。
でもそのすべては、これから知るはずだった、志保さんだ。
それらは、雨に流されて俺の手からどんどん離れていく。俺自身も水に融けていくように、帰りの道を歩く。電車に乗って家に着いた途端、ずぶ濡れの体のまま布団に倒れ込んだ。
この苦しみの名前は何だ。
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