1-8
バイトが終わり、塾の入ったビルを出て、スマホを見ると志保さんからの通知があった。志保さんとは、電話をした日から何度か連絡を取っている。
『返信遅れてごめんね
家の近くではやってないみたい』
志保さんが観てみたいと言っていた映画について、メッセージで話しているところだった。検索エンジンを立ち上げて、映画のタイトルを打ち込む。
「きりたん!」
「ぎゃっ」
後ろから日下に大声で呼ばれ、スマホを取り落とす。慌てて空中でキャッチした。
「また出会い系やってるの?」
「声でかいって!やってないし!」
俺がメッセージを書いているところを目撃すると、日下はいつもそう言った。そう言い返しつつも、目は画面上の検索結果を追っている。何とか日下をやり過ごし、映画の上映館のページを開く。めぼしい映画館を見つけ、志保さんのメッセージにリンクを飛ばした。
『ここならギリ近いかもです 駅ビルの上ですね』
そう付け加え、スマホをポケットに入れた。
こういうやり取りが、だんだんと日常になりつつある。これまで付き合った女の子たちとのそれと、同じように。
俺としたことが、段ボールで買い置きしているペットボトルの水を忘れてしまい、学内の自販機で飲み物を買う羽目になった。暑い季節じゃないので我慢できなくもないが、水分は大事だ。長い人生、健康第一。
俺の人生って長いのだろうか。
授業をほとんどサボっている学生に比べたら真面目にやっていると思うが、だらだら毎日を過ごしていると、自分の人生を実感することなどほとんどない。かといって、無駄な日々だなと嘆くこともない。塾で生徒としゃべったり、好きな時間に夕飯を食べたりするのが楽しい。
じゃあ、なんで今人生について考えたんだ?
お茶のペットボトルが、がこんと音を立てて落下してきた。食堂から少し離れた場所にあるコンビニの前に設置されている自販機。カフェラテ紅茶という謎の飲み物のボタンに「売り切れ」の文字が光っていて、いや売れるのかよと心の中でつぶやいた。
「おー!」
「あいたっ」
取り出し口に手を入れている最中に誰かのカバンが体にあたってきた。振り返ると、伊藤が笑顔で立っていた。
「手挟むわ」
「悪い悪い」
伊藤が何か話し始めたところに、カバンの中でスマホが振動する。取り出すと、志保さんからのメッセージの通知が表示されていた。あっと伊藤が声を上げている。他人のスマホ画面を平気で見るから、こいつの前ではうかつにスマホを見ないようにしている。今日は、失敗。
「またあの人?」
伊藤にも志保さんの存在を知られている。俺から教えたのではなく、今日のようにスマホをのぞき込まれた時に、たまたま志保さんからの通知が来てしまい、そこから認知されてしまった。知られたら絶対に根掘り葉掘り聞いてくると思ったから隠していたのに。
「けっこう会うの?」
「いや」
「じゃあメッセージが基本か」
「まあな」
「なんかエロチャットみたいだな」
俺はその言葉にスマホの画面をスワイプし、伊藤を視野に入れないようにし、その場から去ろうとした。
「ごめんって。桐田ってわりとこういうことで怒るよな」
「わりとって、何がわかるんだよ」
「え?何?聞こえない」
「…」
伊藤が聞き返すためにわざわざ大きな声を出してきて、普段なら流せるのに、今日はやけにいら立ってしまった。
「もしかして、ほんとにエロチャット?」
「笑ってんじゃねえよ!」
伊藤が息をのむ音が聞こえた。俺の声に、コンビニから出てきた学生が顔を上げている。相当大きな声を出してしまったようだ。自分でも理由はわからない。ただ、何か心の中の小さな隙間に入り込まれたような気がした。
そこに、女子特有の、シャンプーとも香水ともつかないような匂いがした。そちらを向くと、白石さんが立っていた。
「なに怒ってんの?
それで、こいつ誰?」
白石さんはそう言いながら、伊藤を一瞥した。伊藤はそのまなざしから逃げるように、廊下を走り去っていった。
「あ…なんか、ありがとうございます。」
「キャリセンの人、いるよ」
白石さんが声を低くして言った。
「大丈夫だと思うけど、あんまり揉めてると印象悪くなるから」
「確かに」
「感謝してね」
俺は深々と頭を下げた。白石さんの笑い声が聞こえる。目線の先には、白石さんの黒いパンプスのつま先があった。
「今日はスーツなんだな どっかインターン?」
「学内の面接練習だよ」
「部活もやって就活もやって忙しいな」
「他人事かよ」
「ほんとだ 俺もやんなきゃ」
学内でも、スーツと革のカバンを持った学生が目立つようになってきた。つい数か月前がちょうどインターンのシーズンだったが、申込日を間違えて参加することができなかった。俺は早くも出遅れているのだろう。
「桐田くんって、仙人みたいだよね」
「え?」
聞き返すと、白石さんが小さく肩を上下させてため息をついた。
「スーツ着てると男は大体エロいねとかそれっぽいこと言ってくるからうざくて。インターン先の社員でもそういう奴いるからね。女が就活してたら絶対一回は言われるんじゃないかとすら思うわ。それを本気で言い返したらまためんどくさいし」
「うわわ」
女子がいろいろ大変なのはぼんやりとはわかっていたけど、白石さんの話す様子を見ていると、現実が想像以上であることが伝わってきた。
「まあそれだけ頑張ってたら、絶対いいとこ入れるよ」
励ましなのか適当なのかわからないことを言ってしまった。白石さんは眉毛をへの字にして笑っている。確かに白石さんのスーツ姿は目を引くし、その照れ隠しに何か言いたくなる気持ちはわかる。…目を引くというか、それ以上のものがある。頭の中に、今日の晩の布団の上の俺がいる。
「桐田くんの彼女になりたい子の気持ち、わかる」
「あっはは」
突然の言葉に動揺して、とりあえず笑っていると、みぞおちに結構な強さのパンチを喰らった。
「うっ」
「何フッた感じにしてんのよ 気持ちわかるってだけだから」
「うう…」
「ていうか彼氏とか足りてるし」
「ですよね」
白石さんがまたパンチの構えをしたので、反射的に腹に力を入れると患部がずきっと痛んだ。『ですよね』はまずい。
「じゃあね」
そう言い、白石さんは背を向けて去っていった。パンプスのヒールが、床を打つ音が好きだ。
男が油断してるだけなのかもしれないけど、女の子って結構強いよな。
アパートに着いて部屋の鍵を探していると、カバンが震えた。中からスマホを取り出すと、志保さんからのメッセージだった。いま仕事が終わったという旨が書かれていたので、お疲れ様ですと返信する。そのまた返信に、赤ちゃんのペンギンがお辞儀しているスタンプが送られてきた。
『けっこう残業ですね』
そう打ち込む。画面左上の時計は、夜の8時を示している。
今電話をかけたら、すぐに話ができるんだろうな。
「さぶっ」
夜風にやられて俺は急いで鍵を取り出し、扉を開けて部屋に入った。手に握っているスマホが熱を持っていてあったかい。
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