第5話 美麗は婚約者を拒絶したい
「婚約者……」
父のいる方の扉の先に、婚約者がいる。 雨宮グループのひとり。雨宮光一。
雨宮グループのことは知っている。笹倉グループと一、二を争うレベルのグループ。企業の吸収にめっきになっていて、笹倉グループ内では少しマークされていたのを覚えている。
「彼には言えないことだけれども、この婚約は政略結婚だ。あのグループがこれ以上力をつけられても困るからね。ここでしっかりと雨宮グループを抑えていかないといけないのだよ」
源蔵さんは、いたって真面目で、小汚いことをしないと、椀さんはいっていた。そんなの、ハッタリだったのだろうか。もともと信じられるような男ではなかった。
政略結婚。
私はまだ高校生だけど、財閥の娘だ。政略結婚も、他人事では済まされないということか。
笹倉グループは、少し風に煽られたらとんでしまうような零細企業ではない。
戦前から存在している財閥を出し抜き、いっきに笹倉源蔵一代で上り詰めてきたグループだという。
雨宮グループは、笹倉グループに匹敵するほどの有名グループだ。昨今では着実に権力を培ってきている。人脈や子会社の数では笹倉グループを凌ぐ勢いだ。
比較的競合の少ない産業でトラストの状態を作り上げ、大きな利益上げ、利権を得る。笹倉グループも似たような方法で発展していった。 笹倉グループのポジションを考えれば心配することはないが、無視できる存在ではない。近いうちに牽制を強める必要がある。
そんな話を、私は椀さんからきいていた。
「光一さん、どうぞ」
メイドが、正面の扉を開ける。
「はじめまして。ボクの婚約者、笹倉美麗さん」
左目でウインクをかましたこの男が、雨宮光一。切れ目で、髪を整髪剤で固めている。身長が、陸夜や明日翔の比ではない。身長は陸夜が、明日翔、それより大きい。一八〇センチ台であるのだろう。圧迫感がすごい。
源蔵さんが段の上にいて、光一は段をゆっくりと降り、私に近づいてきた。一歩ずつ、私に寄ってくる。すると、いきなり私の左手を掴み、彼は顔を近づけた。
まじまじと手相でも診断するかのような手の取り方。鼻息まで、鮮明に感じ取れる距離感だ。
「あなた、初対面でそれはどうなんですか」
「美麗さん、こんなこと、挨拶に過ぎませんよ。何も言われなけば手の甲に唇をしっかりと擦りつけるつもりだったんだけどね。擦り付けるは冗談ですけども」
無理して出しているようなキメた声に背筋が震える。初対面で手の甲にキスをするなんて、常識がないのだろうか。冗談とはいっていたものの、にわかに信じ難かった。本当にやりかねない、狂気を孕んでいる態度だったのだから。
「まあ美麗、光一君はこういう子だ。どうかうまくやってくれたまえ」
「は、はい……」
「よろしく頼むよ、美麗さん」
いちいち格好つけて、疲れないのだろうか??苦笑いでごまかしたのち、源蔵さん
が口を開く。
「さて、今回の婚約はほとんど確定事項となる。まだ二人は結婚できないとはいえ、あと三ヶ月もすれば二人は同棲してもらう。私は早すぎると思うが、笹倉グループの意向でね」
「早め早めといって、その、心の準備がまだ」
こんな男と同棲? 考えるだけで虫唾が走る。私が無防備なときに、襲われでもしたらどうしろというのだ。
「いいじゃないですか、美麗さん。今のうちに仲を深めるのが先決ですよ。ボクはもっと、美麗さんのこと知りたくてたまらないんですから」
背中にさきほどより強い寒気が走った。彼の瞳を見ようとしても、目が合わせられない。あのウインクに耐えられる気が一切しない。
「今日は笹倉家のみんなには出かけてもらっているから、さあ、気楽に話でもしているといいよ。二人とも初対面なわけだしね。それでは私は失礼」
段の先の扉に手をかけ、部屋を後にする源蔵さん。足音が遠くにいくのを見計らい、光一ははっきりとこちらを見つめ、奇妙な笑いを浮かべた。視線を逸らそうとせず、無理やり合わせてくる。
「さあ、美麗さん。やっと二人になれたね」
「だから何だっていうんですか」
「ボクは普通なら、同レベルの人間以外は卑下して、徹底的に叩き潰す性格なんだ」
「それが何か」
腐った性格であるならなおさら好感度が下がる。自分にとって不利な情報を表明
するなんて、この男は一体何を考えているのだろうか。
「キミはもともと財閥の生まれではないそうだね。ふつうなら、僕はキミと会うことすら拒絶したはずなんだ。でもね、キミは違かった。ボクはキミの美しさに惹かれてしまったんだよ────たった一枚の写真をみた瞬間からね。もう一人の婚約者候補もいたよね。義理の妹さんだったかな。それでも、彼女ではなくキミを選んだ。キミしか視界に入らなかったからね」
恐怖心ばかり植え付けられる。絶対に関わりたくないような男から向けられる、一方的な恋愛感情。私の何に惹かれたのか知る由もないけど。彼に私のことなん
か、わかるはずがない。
明日翔や棚葉、そして陸夜のほうが絶対に深い関係で、互いに分かり合える。時間が解決して、彼を好きになることなんて絶対にない。この婚約、その前の同棲
まで、完全に食い止めないと。
そのために、どうにかして嫌われないと。今はそのときではない。
当たり障りない会話が続く。無視してしまうと逆上されるかもしれないという恐
怖心さえあったので、やめておいた。
「ごめんなさい、今日はこのあたりで」
「美麗さん、ボクはもっと話していたいよ。これじゃあ短すぎると思わないかい」
馬の合わない男の話で付き合うのでも精一杯なのに、一時間は話していたかもしれない。ほとんどが一方的な質問だったけど。適当にリアクションをとって、感情を押し殺していた。さりげなく早足で逃げながら、源蔵さんを呼ぶ。段を昇った先の扉を開け、すぐ行くと、彼の書斎がある。
「光一さん、帰るそうです」
「ああ、今いくよ」
老眼鏡をかけ、背もたれの深い椅子に寄りかかりながら、熱心に本を読んでいたけど、すぐにしおりを挟み、椅子から立ち上がってこちらに来てくれた。
「今日は来てくれてありがとうね、光一君」
「いいえ、とんでもない。呼んでくださったのは笹倉家の方々なんですから」
「今日はどうも」
扉を出る直前まで、彼は私に見惚れていたようだった。完全に出て行ったのを確認すると、大理石のテーブルに置いたスートフォンが、着信音を鳴らした。あれ
から、もう二年くらい連絡のない彼から、着信。陸夜からだ。
「これからもよろしく」
という簡潔なメッセージと、可愛げなスタンプが送られていた。光一との一時間なんかより、陸夜の一言の方が、私の心に深く、刻み込まれていった。
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