第11話
「あら、ごきげんよう」
駅からの帰り道に学校の前を通りかかったところ、そんな、現実世界ではついぞ聞かないようなもの珍しい挨拶が聞こえて、俺は夕闇のなかで目線をきょろきょろさまよわせた。
「あ、
和泉が言って、その目線の方向を追うと、そこにはつやつやな黒髪をなびかせた女子高生。俺たちと同じ制服姿。
「こんばんは和泉さん。本日はお日柄も良く」
その女子高生はもう一度挨拶しなおして、それから猫のように目を細めてにっこりと微笑んだ。
艶のある長い黒髪に、上品な顔立ち、そこはかと漂う育ちの良さそうな小綺麗な雰囲気。
和服の似合いそうな人だな、というのが第一印象。
「そちらは、ボーイフレンドの方?」
俺に手を向けて、透明な氷のように透き通った声で言う女子高生。
動作がいちいち丁寧で上品だった。
「いやいや全然そういうんじゃないから。天野くんは普通に友達。いや友達っていうか腐れ縁?」
「そうなんですか。それはとても素敵ですね」
言って、またにこりと柔らかく笑う。言葉遣いが丁寧過ぎてグーグル翻訳のようになっているし、俺と和泉が腐れ縁であることがどう素敵なのか不明だった。
「佐竹はこんな時間まで学校でなにやってたの?」
この佐竹とかいう女子高生は、どうやら和泉の知り合いか友達かなにからしい。佐竹さんはたぶん俺とは別のクラスのはずだから、去年和泉が同じクラスだった人なのだろうか。
「読書をしていました」
「えっ」
佐竹さんは笑顔を維持したまま、そう言った。俺はああ放課後に図書室で読書していそうな雰囲気だもんなと納得したけど、和泉は驚いたような声を短くあげた。
「佐竹が読書してたことなんてあったっけ?」
「……読書をしていました」
佐竹さんは笑顔を崩さないままでそう言った。
「あれ、佐竹って放課後はずっと図書室で寝てたイメージしかないんだけどな」
「……それも、読書をしていた途中に寝てしまっていただけですよ」
「へーそーなんだ」
死ぬほど興味なさそうに言う和泉だった。自分で訊いたんだからもうちょっと興味持ってやれよ……。
「それで、貴方がたは今までなにをしていたんですか?」
「映画観てたんだよ。わたしたち二人と水無瀬の三人で」
「あら、水無瀬というのは、あの水無瀬さん?」
「そうだよあの水無瀬だよ」
「へえ、あの水無瀬さんが。性格から考えて、あの人が同級生と映画館に行くなんて考えられませんけれど」
「へへーんそうでしょ~? わたしが無理やり連れて行ったからね」
和泉と水無瀬さんが去年同じクラスだったのなら、つまり佐竹さんと水無瀬さんも去年同じクラスだったわけで。佐竹さんと水無瀬さんと和泉は三人とも顔見知りなわけだ。
「まあ、あの方なら、無理やりにでも連れて行かない限りそんなことしないでしょうね……」
佐竹さんは遠い目で呆れ混じりに言った。どうやら一年生のときの水無瀬さんも、今と変わらず控えめで引っ込み思案で自信がなくて、そしてぼっちだったようだ。
「それで、何の映画を観たんですか?」
佐竹さんがまたにっこり笑顔に戻って、そんな話題を振った。まだこんな狭い歩道で立ち話を続けるのか……。ちょっと挨拶するだけでもう終わりでいいだろ……とかすぐにせっかちになってしまうのが、俺が彼女いない歴イコール年齢である理由の一端を背負っているのかどうかはさておいて。
佐竹さんと和泉の会話には、男子である俺は入りにくい。だからずっと黙っているのだが、前述したとおり俺は今すぐに歩みを再開したい。腹が減っているし、疲労が膝にのしかかっているし。イライラだらだらして落ち着かない。
小さい頃に母親がママ友と雑談を始めたときの退屈な気分を、久しぶりに思い出した。
佐竹さんに応えて、和泉が映画のタイトルを口にする。
「ああ、あれは私も観ましたよ。この世の終わりかと思うほどつまらなかったですけれど」
ほーう? 佐竹さんはあの映画をそんなにつまらないと評価するのか。じゃあ俺の評価もつまらないに変更しておこうかな。正直言うと、俺の評価の天秤は若干つまらない側に傾いていたし。
「あの映画はいちいち展開が冗長でくだらないんですよ。顔が良いだけの女優と三流男優がドギマギいちゃいちゃしてる場面をあんなに見せられても、あくびが出るだけです。特にあの女優の演技とセリフが気に入りませんね。あの女優の、男の理想そのものみたいなキャラクター造形が本当に気に入りません。しかも、最後の最後まで我慢して観ていても、起伏のある衝撃的な展開は結局なかったですし。原作の小説はどうだか知りませんが、あの映画を作ろうと思い立った監督はたぶん気が狂っているんだと思います」
「え、えぇ……そこまで言う? わたしは結構おもしろかったんだけどな」
ニコニコ笑顔のままよどみなくすらすらと酷評映画レビューを終えた佐竹さんを、和泉が苦笑いを浮かべながら宥める。
そして一人蚊帳の外の俺は少し驚いていた。佐竹さんが着目した点が、俺がさっき映画館で着目した点とほとんど同じであることに、俺は少し驚いていた。俺はさすがに、この世の終わりとまでは思わなかったけど。
もしかしたら佐竹さんとは、映画の趣味が合うかもしれない。
「まあ、感性は人それぞれですので、私の感想も無数に存在するもののなかのたったひとつにすぎません。だから和泉さんの感想も否定する気はありませんよ。心底理解に苦しみますが」
「そ、そっか。……佐竹がそんなになにかを酷く言うのってわたし見たことなかったから、ちょっと驚いちゃった」
「あらごめんなさい。顔の見えない人のこととなるとつい悪口が止まらなくなってしまいますの。性格が悪くてごめんなさいね」
「いやいや、佐竹が性格悪いのは知ってるから、別に全然いいよ」
「あらあら、和泉さんも大概ですよね~?」
「はははははは」
「ふふふふふふ」
外面だけは穏やかな笑顔で笑い合う二人だった。女子って怖い。
「それでは私はこの辺でお暇させてもらいますね」
ひとしきり二人で笑い合ったあとでそう言って、佐竹さんはすっと片手を挙げて、顔はこちらを向いたまま、その背中を俺たちに向ける。
スポットライトのような街灯に照らされたその笑顔はやはり上品で、そしてどこか胡散臭くも見えた。
「それではまた。……天野さんも、またいつか」
急に名前が呼ばれて、俺は脳の処理に手間取って少し反応が遅れる。
「う、うっす。じゃあまた」
我ながら雑な応対をすると、佐竹さんは満足したように頷き、そして綺麗な姿勢でゆっくりと、駅のほうへと歩いて行った。
その姿が親指一本分くらい小さくなってから、俺たちはどちらからともなく歩き始めた。
それから少し歩いたところで、和泉は俺と目を合わせないまま、無表情で言った。
「もうちょっと愛想良くしなよにーさん。せっかく女の子と知り合えるチャンスだったのにさ」
「いやまあ、女子の知り合い増やしたところでな……」
俺はそこまで恋人に飢えているわけではないし、それに、女子の知り合いを増やすのはメリットばかりというわけでもない。女子の味方が増えれば、同時に男子の敵も増えるのだ。人間関係を築くうえで常に他者の嫉妬がついてまわってくる、学校とはそういう場所だ。
なにより、佐竹さんはあまり俺のタイプではなさそうだった。見た目に関しては、正直に言って文句なしの美人だったけど、問題はその他だ。俺はああいう、なにもかもが丁寧で上品で、そのうえ真面目そうな、いわゆる深窓の令嬢タイプの女の子は苦手なのだ。一緒にいると息が詰まりそうだし、俺みたいな男はしょっちゅう説教されそうだし。あとメンヘラ率が高い。
「そうだったねにーさんは水無瀬一人に心を決めているんだったねごめんね余計なこと言って」
「いや心に決めてないから……。いい加減その誤解やめてくれないか」
「にーさんは口ではそう言うけどさ、それに行動が全く噛み合ってないんだよ。にーさんがあそこまで積極的に話しかける女子なんて今までで水無瀬ただ一人だけなんだよ? さっきだって、佐竹に対して無愛想にしてたし。明らかに他の女子と水無瀬で態度が違いすぎるよ」
「それは……」
水無瀬さんが美しすぎるからだ、とは言えないよなぁ。
でも実際、理由はそれしかない。あの美しさはそれほどまでに俺を魅了するのだ。俺の態度や性格を変貌させてしまうほどに、水無瀬さんの魅力はすさまじいのだ。それを、水無瀬さんと同性である和泉に言ったところで理解してもらえないだろうし、そしてやっぱりそれを和泉に言うのは恥ずかしい。
「あー、ほら、あんな、引っ込み思案を極めたような女子って今まで俺たちの周りには一人もいなかっただろ? そういう水無瀬さんの特殊性が、俺の態度まで特殊なものに変えてしまうんだよ。つまりそういうことだ」
「ふーん。なんかよくわかんないし適当に誤魔化そうとしているようにしか聞こえないけど、まあ納得してあげよう。わたしの優しさは地母神レベルだからね~。和泉舞さまやさしいかっこいいかわいいー、ほら、さんはい」
「え」
起伏のない声でよく意味のわからない字面を発する和泉。
「和泉舞さまやさしいかっこいいかわいいーって言ってくれたら、にーさんが水無瀬のこと好きだってことはみんなに伏せておいてあげるよ。だから、ほら、さーんはい」
「いやだから好きじゃないから……」
「いーから、ほら、さんはい」
「……和泉舞さまやさしいかっこいいかわいいー」
無意識に超絶棒読みになってしまっていた。それでも満足だったのか、和泉はむふーと嬉しそうに笑う。
「はいよくできましたー。にーさん偉い偉いー。普段からそれくらいわたしのこと褒めてねー。他の女にかまけてるくらいなんだからさー」
和泉は嬉しそうな笑みのまま、手を伸ばして俺の頭を優しく撫で始める。
……少し照れる。
「……じゃあ和泉は普段からもっと褒められるような行動をしてくれ」
「はあーあ。ほんっとににーさんは素直じゃないしクソ生意気だよね。だから水無瀬も振り向いてくれないんだよばーかばーか」
ばーかばーかと言いながら和泉は俺の頭のつむじをぐりぐり押し込んできた。さっきまでの優しい手つきとは打って変わった凶暴さだった。
「痛い痛い痛い痛い。痛いから、ごめんて」
すると和泉は俺の頭からぱっと手を離して、不機嫌そうに口をへの字にした。
「ふーんだ。にーさんは根性がひん曲がってるんだよ。人のこと好きなら好きって認めたらいいのにさ、なんでそんなに気難しいかなぁ」
「……善処します」
「まーたそういう生意気な答えを用意してくるー。あー、やっぱりなんかイラついてきた」
すると和泉は俺より一歩二歩前に出て、そしてくるりと振り返って俺の正面に立ちはだかった。
「な、なんだよ」
その和泉の不機嫌そうな表情が、しだいにいたずらっぽい笑みへと変わっていく。
「にーさん、ちょっと一回目を瞑って」
「え、わ、わかった」
俺は言われた通り目を閉じた。目の前を真っ暗闇が支配する。
「よし。じゃあ、いくよ」
視覚が閉ざされているおかげで聴覚が研ぎ澄まされ、和泉の声がいつもよりも明瞭に聞こえた。
そして、なぜか和泉の息遣いが近づいてくる。その息遣いはなんだか艶めかしい雰囲気があった。
と、次の瞬間。
むにゅ、と。
柔らかい何かが唇に接触する感覚。
ほどよく柔らかくて、少し温かくて、独特の感触があって。
……これは、人肌?
それが唇に触れているということは、つまり?
……えーと、つまり、どういうことだろう。
「……はい、もう目を開けていいよ」
そんな落ち着いた声音の声が聞こえて、俺が目を開くと、目の前には妙に艶っぽい和泉が立っていた。
そして和泉は俯きがちに、言った。
「わたしのファーストキス、あげちゃったね……」
「は?」
和泉が照れ臭そうに吐いた言葉は、俺の脳内に大地震と大洪水と大厄災を起こした。
つまりさっきの人肌の感触は、和泉の唇?
は?
なにが、どうなって……。
は?
なぜそんなことを?
和泉のファーストキスだかなんだか知らないけど、それは俺のファーストキスでもあるのに。
クラス一大美人にキスをされたことを喜ぶべきか? 和泉のキスを渇望している男子がクラスには多く生息しているのだから、俺は喜ぶべきなのか?
いや、でも、だからって。
とにかく状況を理解できない。
「……なーんて、嘘だよ。さっきにーさんの口にあてたのはわたしの指、唇じゃないよ」
「な、なんだ、それ……」
途端、すぅっと一気に身体から力が抜けて、その勢いで膝から崩れ落ちそうになったがなんとかふんばる。ふぅっと胸をなでおろして、一息つく。
さっきの照れくさそうな表情とは一転して、愉快そうな笑顔の和泉が言う。
「あはは、にーさんでもさすがに女子からキスされたら照れるんだー。勉強になったよ」
「そりゃ、照れるだろ。経験ないし……」
「あは、じゃあ今が初体験なんだ」
「え?」
「いーやなんでもなーいよー。てゆーか、なんだかんだしてたらかなり暗くなってきちゃったし、早く帰ろっかにーさん」
「お、おう。そうだな」
それからは全く何の他愛もない話をしながら帰路を歩いて、別れ際に「ちゃんと宿題やるんだぞー」とか小学生時代に母親から受けるような忠告をなぜか和泉から受けて、俺たちはそれぞれの家に入った。
別れ際の和泉の笑顔は、普段見ているものとはなにかが違っていたような気がした。
いや、ただの気のせいかな。
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