第10話

 映画館を出ると、そこには青空の姿は既になく、代わりに一面の夕闇が広がっていた。少し冷たい空気が俺の頬を冷やす。


 あの後、映画は衝撃的な展開も特になく概ね予想通りに、それっぽい劇的な展開があってそれっぽく二人が結ばれて、そのあとにそれっぽくエンドロールが流れ始めた。


 そして映画を最後まで観た今でも、俺の評価は変わっていない。面白いと言えば面白いし、つまらないと言えばつまらない。


「いやぁ~おもしろかったね~」


 和泉が面白かったと言うのなら、俺も面白かったということにしておこう。よし、今日はお金を有意義に使えたな、ということで。


「おもしろかったね~? 水無瀬?」


 和泉が水無瀬さんの肩を揺すって、笑みを向ける。


「お、おもしろかった、です、ね……」


 水無瀬さんはにひっと不自然な笑みを作ってそれに応対していた。おもしろかったという言葉を全然おもしろくなかった風に使う天才だな水無瀬さんは。


 それから俺たちは適当に駄弁りながら駅の方面へと向かった。だがそれは、和泉があの場面が面白かったとか言ったら俺と水無瀬さんが曖昧に首肯する、というだけのやり取りだったから、果たしてそれを駄弁ると表現していいものか甚だ疑問だけど。


 と、そうして若干早歩きで歩いていた俺たちは、映画館を出てから二分くらいで駅の改札まで行き着いた。ここで水無瀬さんは電車に乗るらしいけど。


 そこで、俺たちが三人横並びになっていた列から和泉だけ一歩先に抜け出て、俺と水無瀬さんに振り返った。


「……あー、なんか急にお花摘みに行きたくなっちゃったから、二人ともちょっとここで待ってて」


 わざとらしく和泉はそう言って、そして露骨に水無瀬さんに目配せした。水無瀬さんはその目配せを受け取って、はっとして、俯く。


 その合図は、俺に見せちゃいけないものなんじゃないのか。なんで俺の目の前で堂々とアイコンタクトを取ってるんだ。なんの意味もないだろそれ。


 たったったっと小走りで和泉が駆けていって、俺と水無瀬さんが取り残される。


 水無瀬さんは俯いたまま、こちらを見ようとはしない。顔を上げる気配すらしない。


「あー、そのー……」


 頭を掻きながら言葉を探す。きっとこの状況は、俺と水無瀬さんとの間に流れる空気をなんとかするチャンスなのだろう。今朝の出来事がきっかけで流れ出した、瘴気のようにも見えるこの微妙な空気をなんとか振り払う絶好のチャンスなのだろう。だけど俺はそんな空気の振り払い方なんて知らなかった。


 そもそも、俺と水無瀬さんとの間に流れる空気が微妙ではなかったことなんて今までに一度だってなかった。だが俺はそんな空気を意に介さずに、水無瀬さんに突進を続けていた。


 だが、水無瀬さんが学校を休んで、そして今朝にあんな突飛な発言をして、俺が遠慮して突進をやめてしまった。そうして俺と水無瀬さんの関係は終わった、はずだった。


 だが俺は、まだ諦めていない。ゲームオーバーのそのさきで、コンティニューボタンを押さずにゲームをクリアする方法を模索している。


 俺は一度逃げようとした。この問題に向き合うのを先延ばしにしようとした。だけど和泉が無理やり俺を引っ張って、ここまで連れてきてくれた。そしてこうして絶好の機会まで用意してくれた。


 ここで、立往生したまま終わるわけにはいかない。


「俺は……」


 俺は。


 なにがしたいのか。どうしたいのか。


 答えを出すべきだ。


「……ごめんなさい。わたしが悪かったです」

「えっ」


 俯いていた水無瀬さんが、珍しくはっきりした口調で、そう言った。


「わたしが全部悪いんです。だから天野くんはなにも悪くありません」

「え、いや、別にそんなことないよ……」


 とりあえず否定しておく。こんな冷たい声音の水無瀬さんは初めてで、どう反応したらいいのかわからない。


「そんなことあります。わたしが全部悪いんですよ」


 水無瀬さんは俯いたまま、鞄を握る手にはぐっと力が入っていて、その指は青ざめるように白くなっていた。


 冷たくてはっきりとした、力強さすら感じる話し方。


「わたしが天野くんのことをぞんざいに扱って、天野くんを傷つけたわたしが悪いんです。わたしが天野くんにちゃんと取り合っていれば、天野くんはここまで傷つくことはなかったんです。全部わたしのせいで、天野くんはこんなにも傷ついてしまった……」

「いや、別に俺は傷ついてないよ?」


 そりゃ少しは傷ついているけれど、水無瀬さんの、まるでナイフで切り裂かれたかのような言い方とはほど遠い傷のつき方だ。


 水無瀬さんの言い方はあまりに深刻すぎた。


「いいえ天野くんは傷ついています。わたしが意識的に傷つけたんだから、傷ついていないはずがありません。全部わたしが自分でやったんですから、そんなはずありません」


 探偵に犯行を暴かれた犯人のような、懺悔とも聞こえる言い方に、俺は戸惑いを隠しきれない。


 その戸惑いは、水無瀬さんがこんなにも流暢に言葉を話しているからなのか、それとも。


「そこでわたしは考えました。わたしの身も心も天野くんに捧げて、それで罪滅ぼしにしようと考えました。でもそんな思惑は、天野くんには簡単に見抜けるものだったんですね。天野くんは冷静にわたしの考えを看破して、そしてわたしの罪滅ぼしを拒否しました」

「あー……」


 もはや、あーとかうーとか意味不明な鳴き声しか出せない。


 まさか水無瀬さんがそこまで考え込んでいたなんて。


 まさか水無瀬さんがそこまで罪の意識に苛まれていたなんて。


 一方的に自分が悪いと思い込んでいたのは、俺だけじゃなかったなんて。


「うー……」

「だから天野くんはなにも気に病む必要はないのです。すべては私が悪いのです。

そんな、気まずそうな表情をする必要はどこにもないのです」


 俯いている水無瀬さんの表情は、前髪に隠れているうえに夕方の薄暗闇のせいで、よくわからない。だけど。


 水無瀬さんの表情はどこまでも暗いように見えた。


 水無瀬さんの表情は常闇に染まっているように見えた。


「結局わたしはいつだって、間違えてばっかり……」

「いやー、すっきりしたぁ。おっとトイレ帰りの女の子に大か小かは訊いちゃだめだよデリカシーなさ過ぎだよ下品だよ天野くん」


 蚊の鳴くように小さい水無瀬さんの声をかき消すように、和泉がそんなことを言いながらトイレから帰ってきた。『いや俺まだなんも言ってないから』とかツッコミを入れることはできなかった。それほど俺の精神には余裕がなかった。


「あれ、どしたの水無瀬。なんかあった?」


 和泉は水無瀬さんの肩を抱いて、その顔を覗き込んだ。水無瀬さんはぷいっと顔を逸らした。


 それから和泉の手を振り払って、逃げるように改札前まで走って、そこで俺たちに振り向いた。


「そ、それではわたしはここで帰りますので! で、ではっ!」


 水無瀬さんはしゅばっと深く頭を下げて、何かに駆り立てられるようにしてホームへの階段を駆け上がっていった。


「…………」

「……やっぱりなんかあったんでしょ」

「別に……」


 なにかあったことはあったけど、そのことを和泉にそうやすやすと伝えてはいけない気がした。


 水無瀬さんが俺のためだけに、俺だけに向けて紡いだ言葉を、和泉にそうやすやすと伝えてはいけない気がした。


 いや、俺が、伝えたくない。


「……ふん。まあいいけどさー。にーさんは意外とわたしのこと信用してないんだねー」

「そ、そういうわけじゃない。これは信用とかの問題じゃないんだよ」

「じゃあどういう問題?」

「……俺と水無瀬さんの二人の問題、だから……」

「なにそれ。カップルかよ」

「か、カップルじゃないから……」

「はあーあ、にーさんホントつまんねーのーってことで。そろそろ帰ろっか」


 ふっと、呆れの混じったような微笑を俺に向けて、和泉は言った。


「……ああ」


 俺は頷いて、二人で歩き始める。


 やっぱり水無瀬さんは、俺には理解できない。


 水無瀬さんがあそこまで自分を責めていただんて、俺は今の今まで想像だにしなかった。


 俺は今まで、水無瀬さんに非があることなんて何一つないと思っていたし、話を聞かされた今も、やはり水無瀬さんには何の非もないと思っている。


 だけどそれは俺個人の主観的な考えであって、水無瀬さんの主観的な考えとは全く違うだろうし、そしておそらく、和泉の客観的な考えともまた違う。


 それを三人で伝え合ったところで、たぶん理解し合うことはできない。実際、俺は水無瀬さんの考えを理解することができなかった。


 人を理解することができなければ、人に理解されることもできない。


 理解できないから、互いにぶつかり合うしかない。


 ぶつかり合っていく中で、なにか、到底言語化できないような感情を少しづつ受け取って、少しづつ理解していく。


 それしか方法はないのだろうか。


 俺と水無瀬さんはずっと、互いのことが理解できるまで、微妙な距離感を保ちながらこうしてぶつかり合っていくしかないのだろうか。


 もっと平和的に理性的に、理解し合うことはできないのだろうか。


 言葉で伝えることができないのならば。言葉で理解することが、理解させることができないのならば。


 ならば、他にどんな方法がある?

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