第6話
翌日の朝。俺が気を揉みながら教室の扉を見つめていると、なんとそこから水無瀬さんが現れた。黒いリュックを背負った、長い前髪で目を隠した、いつも通りにキラキラな水無瀬さんが現れた。それを見た俺は、なんだ昨日の欠席はただの風邪かなにかだったのか不登校になったわけじゃなかったのか、と安堵の息を漏らし、昨日の昼休みに三人で真剣に不登校について話していたのがバカみたいだなと笑みが零れたのもつかの間。
水無瀬さんはずんずんと、足取りだけは自信満々に、俺の席へと向かってきた。窓際最後列の水無瀬さんの席ではなく、確実に俺の席へと向かってきていた。
そして俺の席の前に立って、前髪の隙間からのぞける頼りなさげな目で水無瀬さんは俺を見下ろした。俺は驚きながらもその宝石の如き瞳を見つめる。
そして。
「わたしと付き合ってください!」
と、深々と頭を下げて、水無瀬さんは言った。
まぁ、それは一旦さておいて。
ここで突然だが、少しだけ哲学めいた話をしよう。この話に学はないけど。
人間は誰しも、人格もとい性格というものを持っている。言わずもがな、人間の性格というものは多種多様で複雑で、それは明確に区分することができない。ゲームのモンスターのように、やんちゃ、いじっぱり、ひかえめ、ようき、おくびょう、だとか一言で言い表すことは、現実世界の人間についてではまず無理だ。人間というのは、ひかえめな一面もあればやんちゃな一面もある。いじっぱりな一面もあればおくびょうな一面もある。人間の性格は一言で簡単に言い表せるほど単純な構造ではない。人間の性格というのはゲームのプログラムとは違って、まさに複雑怪奇、難解に尽きる。
人間の性格は一言で言い表せないということはつまり、それは人間の性格を説明することがとても難しいということを意味する。いやそもそも説明する以前に、人間の性格を理解することからしてなかなか難しい。
なにを隠そう、この俺だって、一人の人間の性格も理解できたことはないし、言わずもがな他人の性格を説明するなんてもってのほかだ。俺からしてみれば他人の性格を理解することなど不可能に等しい。いや、俺じゃなくとも他人の性格を百パーセント理解することは不可能なのではないか。
そう、つまるところ、人と人が深い場所で完全に理解し合うのは、わかり合うのは、不可能なのである。
「…………それはどういう意味なのかな?」
だから俺が水無瀬さんのことを理解できるはずもなくて、水無瀬さんの行動や言動を理解できるはずもなくて。そしてこの先理解できるようになることもないのだった。
昨日の和泉の、水無瀬さんが一年生だったころの話から、水無瀬さんは俺に話かけられるのが嫌で、煩わしくて、それで昨日学校を休んだのだと俺は思い込んでいた。他人の気持ちなんてわかるはずもないのに、俺は決めつけていた。
「え、えーっと……それは、その……」
水無瀬さんはそこで頭を上げて、それから焦ったように目をきょろきょろさせて、気まずそうに横っちょの前髪をくるくるといじり始めた。
俺は今まで水無瀬さんのことを、自信過剰とは真逆の、過剰なまでに自信が不足している、そして一人でいるのが好きな寂しさを知らない女の子だと思っていた。俺の中で勝手にそういう性格の人間として位置付けていた。
やはりそれは俺の勝手気ままな決めつけでしかなかったのか。
「も、もちろん、恋人、的な、意味、です……」
「あのさ、水無瀬さん。少し冷静になろうか」
言いながら、そう言う自分がなぜここまで冷静に受け答えしているのかが不思議で仕方がなかった。今さっき、人生で初めての女子からの告白を受けたというのに、俺はなぜここまで落ち着いているのだろう。
歯が浮くこともなかったし、心臓が飛び跳ねることもなかった。今だって心拍数は通常だし、手足が震えていたりもしないし、もちろん顔が熱くなっていたりもしない。
水無瀬さんが俺のことが好きではないということが、わかりきっているからだろうか。
「れ、冷静って……?」
「まず、水無瀬さんはどういうつもりで俺に付き合ってくださいなんて言ったのかな?」
妙に教室内が静かなのが気がかりだった。教室中が俺たち二人に注目しているのだろうか。確かに突然女子が俺みたいな平々凡々な男に告白したのだから、みんな注目するかもしれない。だが俺はそれを確認することはない。なぜか、絶対に水無瀬さんから視線を外してはいけない気がしたからだった。
「そ、それは、天野くんと付き合いたいと思ったから……」
「本当に?」
「えっ……」
「水無瀬さんは本当に、心の底からそんなことを思ったの?」
俺は自分の混乱を誤魔化しているだけなのかもしれない。水無瀬さんの前でみっともなくうろたえる姿を見せたくないがために、こうして冷静な風を無理やり装っているだけなのかもしれない。
だから外面は落ち着いていても、脳内は混乱しているのかもしれない。脳内はクエスチョンマークで埋め尽くされているのかもしれない。
自分のことなのに『かもしれない』なんて言っている時点で、その答えはもう出ているようなものだが。
「お、思って……」
「思ってないんだよね。水無瀬さんは問題を丸く収めようとしただけなんだよね。俺のせいだよね。ごめんね」
無意識に口調が変わってしまっていたのも、混乱している証拠か。
「あ、あーとえーと、その、あの……えー……」
図星だったのか、水無瀬さんは忙しなくあっちへふらふらこっちへふらふらと視線を泳がせて、わかりやすく困惑した。
図星だった、のか。
「べ、別にそういうわけでは……」
目をぐるぐるさせてひたすら困惑して、水無瀬さんは変なイントネーションで言った。心なしか息遣いが荒くなっている。
……俺はまた、なにか間違えてしまったのだろうか。
「おい天野。あんまり女の子のこといじめるなよ」
すると水無瀬さんの横から、鞄を背負ってポケットに手を突っ込んだ古泉が現れた。
水無瀬さんは一瞬だけ泳いでいた目を古泉に固定して、それからまたすぐに目を泳がせ始めた。水無瀬さんは忙しない。今の水無瀬さんは見ていて飽きないな。
「水無瀬さん、今日は学校来たんだ」
古泉はちらと水無瀬さんを見やって、なんでもないことのように言った。
「あ、あえっと、はい……」
水無瀬さんは目を泳がせたまま胸の前で手をぱたぱたと振り始めた。
「おい天野、水無瀬さん困っちゃってるだろ。お前なんとかしろよ」
「え、えぇ……」
お前がなんとかしてくれるんじゃないのか、と口から出かけたのを抑える。古泉があんな登場の仕方をしたから、てっきり古泉には何かこの状況をなんとかする策があるのかと思ったのだけれど、そんなものはないらしい。じゃあなぜここに近づいてきたんだ。
まぁ、女子と付き合ったこともない古泉にこの状況を打破できるはずがないことは明白か。
いや、一応、一度は女子と付き合ったことはあったのだっけ。
「水無瀬さん、どうせまた天野が変なこと言ったんだろ? ほら、天野、早く謝れ」
変なことを言ったのは事実だったので、言われた通り素直に謝ることにした。
「ご、ごめんね、水無瀬さん……」
「い、いえ、あの、変なこと言ったのはわたしのほうっていうか……」
あわあわとうろたえながらか細い声で主張する水無瀬さん。しかしその声は古泉の耳には聞こえなかったらしい。
「ほら、昨日天野がもう水無瀬さんにしつこくしないって言ってたから、水無瀬さんはもう安心していいぞ」
「あ、そう……なんですね……」
言いながら、水無瀬さんはだんだんと落ち着きを取り戻した。泳いでいた目はそれなりに落ち着き、わなわなしていた手はすんと重力に従って垂れた。
「で、では、これで……」
そう言って最後に軽く頭を下げて、水無瀬さんはそそくさと自分の席、窓際最後列の席へと向かって行った。水無瀬さんが俺の目の前から消えると、教室もざわめきを取り戻した。クラス中が俺たちに注目していたのか、単に俺の耳が聞こえていなかっただけなのかはわからない。
「……で、お前、水無瀬さんに何言ったんだよ」
立ったまま俺の机に手をついて、古泉は俺に顔を近づけて言った。
「……別になんも言ってないよ」
「何かは言ったんだろ。そうじゃないとあの様子はおかしい」
「……逆だよ逆。俺が言われたんだよ」
「なんて?」
「……付き合ってくれって」
「お前クソみたいな嘘つくなよ。痛々しいな」
「嘘じゃないから」
「あーはいはいわかったわかった。妄想癖も大概にしとけよー」
そう言って俺に向かって手をぷらぷら振って、古泉も自分の席へと向かって行った。
そして俺は深く息を吐く。そしてまた吸って、吐いた。
「それにしても、本当にわけわかんないよな……」
水無瀬さんといい和泉といい、美人は皆同時に変人も兼ねているのだろうか。
朝教室に来て開口一番が告白ってなんだよ。これだけ聞いたらどういう状況なのか全くわからないよな。いや、実際に体験した俺も全くわからなかったけど。
水無瀬さんについてわからないことが多すぎる。
水無瀬さんと仲良くなるには、もうあと十年くらい必要なのではないか、という自分でもよく意味の分からない不安が、俺の心に曇り空を呼び込んだ。
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