第5話

 翌日、昨日の和泉の言った通りに、水無瀬さんは本当に学校に登校してこなかった。朝のホームルームが始まる時刻になっても、水無瀬さんの席は空席のままだった。机の上にはなにも置かれていないし、脇にもなにも引っかかっていない。そんなすっからかんな席をずっと眺めていると、座っている水無瀬さんの姿がうっすらと見えるような気がしてくるが、無論それは幻だ。


 本当に水無瀬さんは学校に来なかった。本当に不登校になってしまった。いやでも、まだ一日休んだだけだから、不登校だと断定するのは時期尚早だけど。


「なあ、今日水無瀬さん学校来てないけどさ、これって天野のせい?」


 昼休み、俺の前の席の椅子を引きながら、古泉がだしぬけにストレートになんのオブラートにも包まれていない疑問を投げかけてきた。


「そ、それは……俺にもわからん」

「まあでも十中八九天野のせいだろうな。それ以外に思い当たることがひとつもないし」


 そう言われると俺も返す言葉がない。最近の水無瀬さんの周りでの変化といったら、俺が水無瀬さんにしつこく話しかけるようになったこと、ただそれだけだ。ならばそれが原因で間違いない。


 それはわかる。


 俺はしつこくしていたつもりはないけど、水無瀬さんからすればしつこかったのだろう。そして傍から見ても、第三者から見てもそれはしつこいように見えたのだろう。


 それは俺もわかっているのだ。昨日和泉に言われて、そこまでは俺も理解することができたのだ。


 でもまさか、本当に水無瀬さんが学校に来なくなるなんて。


 俺はどこかで、昨日の和泉の話を疑っていた。まさか本当に水無瀬さんが不登校になるはずがないだろうと、疑っていた。


 見通しが甘い。浅はかだ。愚かだ。


 胃が重い。


「そうだよ天野くん。水無瀬が急に学校に来なくなっちゃったのは、ほとんど天野くんのせいなんだからね」

「うわぁ、なんだお前」

「和泉舞ちゃんですけどー。まさか忘れちゃったの? 昨日はあんなに求めてきたのにさー」

「な、なんだそれ……」

「おい天野。『求めた』ってなんだ?」


 古泉の声はボリュームこそ常識的だったけど、その目は怖いくらいにぎんぎんぎらぎらな興味であふれていた。俺に対する真っすぐで純粋な興味であふれていた。


「な、なんでもないよ……。昨日は特になんもなかったよ」

「おい天野。『昨日は』ってなんだ? 昨日じゃなかったらなんかあるのか?」

「昨日じゃなくてもなんにもないから……。とりあえず落ち着いてくれ」


 古泉はなおも俺に真っすぐな視線を向け続けるので、俺は古泉の弁当を開けて、そこに入っていた卵焼きを古泉の口に押し込んでおいた。


 俺も菓子パンの袋を開けて、チョコクリーム入りコッペパンの先端をかじる。


 そしてなぜ、和泉は当然のように俺たちの横に椅子を用意して、その白い足を組んで座っているのだろう。いつも一緒に昼食を食べているグループは放っておいていいのだろうか。


「和泉、あいつらと一緒に食べなくてもいいのか?」

「いいのいいの。あたしたちは昼ご飯一緒に食べなかったぐらいで崩壊するようなクソ雑魚な関係性ではないからね。あたしたちは天野くんの想像を絶するような強靭な関係性で結ばれているのだよ」


 言いながら、購買で勝ってきたのであろうおにぎりのビニールをぺりぺり剥がす和泉。さすが、本物の陽キャは言うことが違う。


「そんなことよりさぁ、天野くん。水無瀬のことどうするの?」


 おにぎりをもぐもぐしながら言う和泉。


「そうだぞ。水無瀬さんが学校に来なくなったのは天野のせいなんだからな」

「ぐ……。ひ、人のことを責めていたってなにも生まれないだろ?」


 そういう責められ方をされると、反論の余地がないのだ。


「そもそもさぁ天野くん。なんで急に水無瀬に突っかかるようになったの?」


 むぐむぐしながら言う和泉。


「いやだからそれは、水無瀬さんが寂しそうにしてたから俺が気を利かせてだな……」

「え? 一目惚れなんじゃなかったのか?」

「え、なにそれ」

「あ……」


 むぐむぐする顎の動きを止めて、俺に向かって小首を傾げる和泉と、素朴な疑問の眼差しを向ける古泉とに俺は板挟みになる。


 そういえば、古泉には本当のことを言ってしまっていたんだった。いや本当のことというか、厳密には俺は一目惚れなんて一言も言っていないし実際一目惚れもしていないんだけど、古泉はそう受け取ったらしい。


 だが、和泉に対して言ったことは紛れもなく嘘だ。俺は水無瀬さんが寂しそうだったから声をかけたのではないことは、紛れもない事実だ。


「ねぇ天野くん、一目惚れって、なに? 水無瀬のこと好きじゃないって言ってたよね?」


 さて、どうやって誤魔化そうか……。


「あのー……あれだよあれ。寂しそうにしてた水無瀬さんに近づいてみるとさ、案外顔がかわいいってことに気付いて、それを古泉に言っただけだよ。ていうかそもそも、俺は一目ぼれしたなんて一言も言ってないし」

「ほーん……そういうことか。そういえばあのときもそんなようなこと言ってたな……」


 古泉の言葉はこそあど言葉ばかりでわかりにくかったけど、とりあえず古泉のほうは納得してくれたようだった。


 さて、和泉のほうは……。


「今、水無瀬がかわいいって言った?」

「え……言った、けど」


 和泉は俺に射抜くような鋭い目を向けて、いやに低い声で言った。


「天野くんも、水無瀬のことかわいいって言うんだね……」

「え……、なんだよそれ。どういうことだ?」


 和泉はあえて含みを持たせたかのように言った。和泉の言葉には意味深長な響きがあった。


 『天野くんも』ということは、つまり俺の他にも水無瀬さんの容姿端麗さに気付いている人間がいるのか。いやしかし、もし俺以外にも水無瀬さんの容姿に気付いている人がいたならば、こんなにも水無瀬さんの存在感が希薄なのはおかしい。俺以外にも気付いている人がいるならば、水無瀬さんはもっと噂になったり有名になったりしているはずだ。あんな、明らかに異質な存在が、こんなにも影を潜めているこの状況こそが異常なのだから。


 ……まさか、俺と同じように水無瀬さんを独占しようとしているのだろうか。自分が独占しようとしているからこそ、水無瀬さんのことを誰にも知らせずにいるのだろうか。


 俺と同じ目的の人間が、他にいるのだろうか。


「べっつになんでもないよー」


 和泉ははっはっはと笑い飛ばしてすべてを誤魔化そうとしている。誤魔化さなきゃいけないようなことなら最初から言わないでほしい。めっちゃ気になるから。


「俺以外にも、水無瀬さんをかわいいって言った奴がいるのか?」

「うーん? そりゃいるでしょ。水無瀬は現にかわいいし、そんなの見ればわかるじゃん。あたしも水無瀬のかわいさのことはよーく知ってるしね」


 なんだその言い方は。まるで、水無瀬さんの宇宙レベルの容姿が周知の事実であるかのような。


 もしそれが周知の事実であったなら、クラスメイトたちがここまで水無瀬さんに無関心なのはおかしい。おかしいはず。


 俺のほうがおかしい?


「なんだよそれ。そんなこと言ったって、みんな水無瀬さんに関心薄いじゃないか」

「ああ、まぁ、水無瀬みたいな性格の女子は、男子からの人気はなさそうだしね。でも水無瀬のかわいさなんて、女子のなかでは割と有名だよ?」

「でも水無瀬さん友達いないだろ」


 古泉がすっとさりげなく和泉に視線を向けて、箸でウインナーをつまみながら冷静に言った。


 確かに、水無瀬さんの容姿が女子の間で有名なら、水無瀬さんに興味を持つ人だっているだろうし、そして水無瀬さんに近づいてくる人間だっているはずだ。あの類まれなる容姿が有名でありながら水無瀬さんが孤立しているというのは、なんとなくおかしい。あんなにキラキラした女の子が孤立しているのはおかしい。


 まぁ、見た目とコミュニケーション能力は必ずしも比例するとは限らないけど。


「……ははは、わかってないなぁ古泉くん。だからこそ、だよ」


 ぴっぴっぴっとわざとらしく指を振りながら言う和泉。


「……だからこそ……」


 だからこそ。水無瀬さんが美しすぎるからこそ、水無瀬さんには友達がいない、ということか。


 確かにそれは想像に難くない。羨望から生まれるのはいつだって嫉妬だけだ。水無瀬さんの容姿は言わずもがな目立つ。一度それに気づいてしまったら、否が応でも視界の隅にちらついてしまうほどに目立つ。それに対して好奇心や興味を持つもの、羨望するもの、そして嫉妬するものがいる。その中で一番割合が多いのは、おそらく嫉妬する人なのだろう。あるいは羨望していた人が嫉妬に転向するか。


 自分にないものを持っている人に嫉妬せずにはいられない。黒い感情を抱かずにはいられない。人間とはそういう生き物だ。


 そうか、そうなのか。そうなると美しいというのも良いことづくめではないのか。美しい容姿に生まれた当人からしてみれば、それは迷惑な神のいたずらのように思えるのかもしれない。美しさを捨てたいとさえ思うこともあるのかもしれない。凡人の容姿が欲しいと思うのかもしれない。だが俺たち凡人の目にはそんな苦労は映らない。美しいほうが良いに決まっていると決めてかかっている。そして美しい容姿を欲している。


 所詮、お互いないものねだりか。


「もちろん、水無瀬さんのノリの悪さというか、コミュ力の問題もあるんだけどね……。でもやっぱり、見た目があそこまでだと、なかなか近づけないよ」

「それじゃあ、和泉が水無瀬さんの友達になればいいじゃないか」


 今こそ和泉のクラス人気ナンバーワン陽キャの力を見せるときだろう。見た目は水無瀬さんに劣るけど、コミュ力や人間力やらは最強レベルだ。


「い、いや? あたしはもう既に水無瀬の友達だよ? たまに話してるし」


 目を泳がせながら和泉は上擦った声で言った。


「和泉と水無瀬さんが話してるの見たことないけどな……」

「そ、それはここ一週間だけの話でしょ? あたしは一年生のころから水無瀬の友達だし、前からずっと友達だったの。この一週間は天野くんが邪魔して話せなかっただけだし」

「……本当に?」

「本当だよ。天野くんはいっつもあたしのことなんか見てないからわかんないかもしれないけどさー」


 それから和泉はおにぎりの最後の一口をぱくりと口に放り込んで、なぜか不機嫌そうに二個目のおにぎりのビニールを剥がし始めた。


 一応、水無瀬さんには和泉という友達がいるらしい。ではつまり、水無瀬さんはぼっちではないということになる。たとえ和泉とのつながりが、友達とはとても言い難いような希薄な関係性であったとしても、一応クラス内での人のつながりがあるのだから、完全な孤立ではない、もといぼっちではないのか。


「それでさぁ、天野くん。話を戻すけど、どうやって水無瀬を学校に連れ戻すの?」

「いやでも、連れ戻すって言ったって、まだ一日休んだだけだろ。本当は勝手に俺たちが事情を想像して杞憂してるだけで、水無瀬さんはただの病気かもしれない。明日になったらひょっこり登校してくるかもしれないだろ。だからまだ、別にそんなことは考えなくてもいいんじゃないか?」

「いつでも最悪のパターンは考えておくべきだよ天野くん。なんてったって、水無瀬には不登校の前例があるんだからさ」


 不登校の前例。そういえば昨日、和泉が帰り道でそんなことを言っていた。一年生の頃、一時期水無瀬さんが不登校になったことがあるとかなんとか、そんなことを言っていた。


「その、前に不登校になったときっていうのは、なにか原因があったりしたのか?」


 不登校の前例、いかにも解決策が眠っていそうな話題だ。というか、解決策があるならそこにしかないだろう。


「えぇ、まぁ、あんまり詳細なことは言えないんだけど……」


 言いにくそうにして、和泉は眉間にしわを寄せる。だがこちらとしては教えてもらわないと困る。前に不登校になったことがあって、そして昨日まで水無瀬さんは学校に来ていたということはつまり、水無瀬さんは一度は不登校から立ち直っているわけだ。不登校を解決したわけだ。その解決法が今回も使えるかもしれない。


「教えてくれよ」

「まぁ、いいよ。かなり大雑把に言うけど。……あのときは多分、水無瀬に告った男子がいたのが原因だと思う。それもかなりしつこく」

「告った?」

「うんそうだよ。付き合ってください付き合ってくれ付き合おう付き合え付き合わないとさもなくばってな感じで、かなりしつこく告った男子がいた」

「高校一年生のくせに、恥じらいのない男だな」


 ほうれん草を箸でつまんでいた古泉が言った。確かに、その男は思春期の人間にしては積極的すぎるけど。


 水無瀬さんにかなりしつこく告った男。つまりそいつが、俺以外に水無瀬の容姿に気付いた男なのだろうか。いや、水無瀬さんのかわいさに気付いても歩み寄らなかった男ももしくはいたのかもしれないが、それでもはっきりと水無瀬さんをかわいいと言ったのはそいつと俺くらい。さっきの和泉の含みを持たせた発言はそういうことなのだろうか。


「それで困っちゃって、不登校になったと?」

「うんそーそー。困ったっていうか辛くなったんじゃないかな。つらそーに見えたし。…………なんかさ、これ、今の状況と似てない?」

「……似てるかも……な」


 俺は水無瀬さんに告白したわけではないけれど、水無瀬さんにしつこく話しかける男という点では、共通している。似ている。


「じゃあやっぱり、天野のせいなのか」

「俺のせいなのは最初からわかってるから……」


 水無瀬さんの不登校の原因が俺にあることはもう十分理解したから、これ以上俺を責め立てるのはやめてほしい。もう十分わかってるから、胃の重りがずしんと響くから、やめてほしい。


「それで、そのとき水無瀬さんはどうやって不登校から立ち直ったんだ?」

「うーんと、水無瀬が学校に来なくなってからしばらくしてー、そしたら急にその告ってた男子がなんか冷めちゃったというか呆れちゃったというか、とにかく水無瀬への興味を失って、そんでそれを水無瀬に教えてあげたら、水無瀬が次の日からけろっとして学校来るようになった。なんでか知らないけど、水無瀬が学校に来てもその男子は特に何も言ってこなかったね」

「無茶苦茶だな、その男」


 古泉が呆れたように目を細めながら言った。それからすぐに真面目な顔で俺に向き直った。


「よしじゃあ天野、水無瀬さんへの興味失え」

「失えって言われて失えるもんじゃないだろ……」


 水無瀬さんの一年生のころの苦悩はなんとなく把握できたけど、それを今の状況に活かすことはできそうになかった。


 状況が似ているといっても、水無瀬に告白しているかしていないかの違いは大きいのではないだろうか。


 俺は水無瀬さんの恋人になりたいのではなく、水無瀬さんにとっての近しい『なにか』になりたいだけだ。


「てかさ、興味失えないんなら失ったていにすればいいんだよ。だからその一年生のころみたいに、天野が水無瀬さんへの興味失ったって水無瀬さんに連絡すれば、また学校来るようになるんじゃないか? それで水無瀬さんが学校来たら、当然だけど天野は水無瀬さんに極力関わらない」

「それいいかも! それでいいじゃん!」


 ごくりとおにぎりを飲み込んでから、和泉は目を輝かせながら古泉に同意した。

 だが、俺はさすがに同意しかねる。


「……それ、今からやるのか?」

「やればいいんじゃないか?」

「……やめてくれよ。ほら、さっきも言ったけどまだ水無瀬さんが不登校って確定したわけじゃないんだからさ、それは最後の手段ってことにして」

「天野くんは、まだ水無瀬さんに意識しててもらいたいんだね?」


 にやっといたずらっぽい笑みを浮かべた和泉が、俺にそんなことを言ってきた。


「え……いや……」


 なぜだろう。俺にはその笑顔が、どこか悲しそうに見えてしまった。


「……『お前に一切興味ないから』とか言われたら、誰でも嫌な気持ちになるだろ。だから別にそういうわけじゃない」

「……そっか。まあいいや」


 そう言って二個目のおにぎりの最後の一口をぱくりと食べて、それをごくりと飲み込んでから、和泉は立ち上がった。


「じゃあこれから一週間くらい水無瀬が学校に来なかったら、また考えよっか。その最後の手段を使ってもいいし、何か別の方法でもいいけど」

「和泉さんは優しいな。ほらちゃんと感謝しとけよ、有象無象の凡人天野くん」


 とん、と俺のこめかみを軽く小突いて、古泉が言った。


「あ、ありがとな、和泉……」

「どうってことないよ。天野くんはあたしが面倒見てあげないとほんとにどうしようもないんだからさ、しょうがないよ」


 そう言って、最後にふわりと優しく笑ってから、和泉は自分の席へと戻って行った。


 和泉が遠く、俺たちの声が聞こえないくらいの位置に行ってから、古泉が若干小さい声で言った。


「……なに、お前ら、距離感近くない? 付き合ってんの?」

「……幼馴染なんだよ」

「なんだよそれ。先に言えよ。クソ羨ましいな」

「お、おう。ごめんな……」


 古泉はもう一度俺のこめかみを小突いてから、席を立って、自分の席へと戻って行った。


 なんで俺は少し照れているんだろう。

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