第4話
「おーい水無瀬さん。今日は俺と一緒に帰らな「すみませんごめんなさいさよなら!」
勢いよく俺に頭を下げて、水無瀬さんは目にも止まらぬ速さでしゅばっと教室を出て行ってしまった。
「おい天野、あんまり女の子のこといじめるなよ」
「俺はいじめてるんじゃない。それ朝も聞いたぞ……」
またも俺は水無瀬さんに逃げられて避けられて、そして古泉に訝しげな視線を浴びせられた。
あれから、俺が水無瀬さんの美しさに気付いてからはや一週間。俺はあれからずっとこのように水無瀬さんに歩み寄ろうとしているのだけど、状況は依然として全く変わっていない。ずっと水無瀬さんに避けられっぱなしだ。俺は悲観をぶっ潰すことができずにいる。
なぜだろう。なぜ水無瀬さんはそこまで俺のことを拒絶するのだろう。一週間ずっとこんなにも友好的にフランクに話しかけているというのに、水無瀬さんは一向にこちらに心を開こうとする様子がない。徹頭徹尾俺を拒絶し続けている。
ここまで俺を拒絶するのはつまり、何かそれ相応の理由があるのだろうか。俺を拒絶しなければならないような由々しき理由が、水無瀬さんにはあるのだろうか。
そうでないとすれば、水無瀬さんは本当に心の底から孤独を愛しているのか。自分が孤高であり続けたいがために他者を過剰なまでに拒絶するのか。
…………孤独を愛している人間なんているのか?
「それじゃあさー天野くん。今日はあたしと一緒に帰ろうよ」
ぱしっと俺の手首に少し冷たい体温が密着する。振り向くと、和泉が満面の笑みで俺の手首を掴んでいた。
「え」
「え? 和泉さんって天野と仲良かったんだ」
古泉のそんな驚きの声が聞こえて、それからぞわりと、クラス中の男子の視線が背中に集まったような嫌な寒気がした。いや、集まったような、じゃなくて実際にクラス中の男子がこちらを見ている。心臓が浮いて鳥肌がたつ。
普段、自分にこんなにも視線が集まることなんてそうそうない。
和泉はいつもこの視線の量を平気な顔をして受けきっているのか。
「あら? 古泉くんが先約とっちゃってた?」
「いんや別に。俺はこれから部活だし、天野ぐらいならいくらでも持っていっていいぞ」
「それはよかった。そんじゃー行こっか、天野くん」
俺の手首を掴んでいるその手をするりと俺の手のひらまで滑らせて、そして俺の指の間に和泉の指が入ってきた。それからがしっと、強い力でしっかりとロックされる。俺の関節と和泉の関節がかち合う。ちょっとやそっとじゃ振りほどけないくらいに強くロックされる。
……これはいわゆる、恋人つなぎか。
そして和泉はさらに肩と肩を密着してくる。腕を組んでくる。和泉の息遣いが匂いが体温が身近になる間近になる。
「ふんふふ~ん。天野くんと一緒に帰るの久しぶりだね~?」
和泉はまたも戸惑う俺を無視して俺の手を引っ張っていく。廊下に出る。クラス一の美少女である(水無瀬さんを除けば)和泉が男と手を繋いで歩いている構図は、やはりかなりの注目を浴びる。びっくりするぐらい綺麗に、廊下にいる人たち全員が俺たちの握る手に視線を注いでいる。
俺の隣で楽しそうに、スキップでもしそうな様子で鼻歌を歌う和泉。子供のように無邪気な満面の笑み。
……あれ、和泉ってこんなにかわいかったっけ。
いやだめだ。
和泉はなにをするつもりなんだ。どういうつもりなんだ。
俺を篭絡するつもりなのだろうか。ではなんのために?
やはり今回も和泉はなんの脈絡もない。
「な、なんのつもりだよ、また急に俺を引っ張ったりして」
「だから、天野くんと一緒に帰ろうと思ってさ。どうせ一緒に歩くんなら手を繋いでいた方がいいでしょ?」
いやまあそりゃあ俺としては女の子と手を繋げるんだから手を繋がないよりは繋ぐほうが断然良いけど。俺としては手を繋ぐほうが幸せになれるけど。
いや違くて。
「和泉は俺のこと『にーさん』って呼んでたんじゃなかったのか?」
俺が言うと突然、和泉の歩く速度が一気に速くなった。歩幅が大きくなり一秒あたりの歩数が一歩増える。そして俺の足がもつれる。
「ちょ、ちょっと待てよ。転ぶって」
「ちょっと校門まで黙っててもらえるかなぁ? 天野くんさぁ?」
「え、なんで?」
「だから黙ってろって。何回も言わせんなよ」
急に冷たく低い声で乱暴な口調になった和泉が怖くなって、俺はすぐに押し黙った。とんだヘタレである。
それからお互い無言のまま、駆け足で階段を降りて廊下を進み、下駄箱まで来たところで和泉が俺の手を離した。
「はい、靴履いて」
和泉が靴に踵を入れながら、背後にいる俺に向かって言う。
「ほら早く。さーん、にー、いーち」
「わかったわかったわかったから」
俺は急いで下駄箱から靴を取り出して地面に落として、雑に足を入れた。
「はーいそれじゃーいくぞー」
今度は恋人つなぎではなく普通に俺の手首を握って、そしてまた駆け足で和泉は歩き始めた。いやもう、歩くというより走っている。
校門を出て、駅から反対方向の、あまり生徒が歩いていない道を少し進んだところで、和泉がやっと俺の手を離してくれた。
そしてくるりと振り返った和泉は、またも膨れっ面だった。
「あんさぁにーさんさぁ、あたしがにーさんのことにーさんってバカみたいな呼び名で呼んでんのはみんなには秘密なんだからさぁ、学校の廊下とかでああいうこと言わないでよね」
「みんなに知られるのが嫌なら、にーさんなんて言わずに天野くんで統一すればいいじゃないか」
「そ、それはなんか…………いやじゃん」
「なにがいやなんだよ」
「……と、とにかくにーさんはにーさんなのー! これはもう覆らないから! 一生!」
和泉ってこんなに頻繁に声を荒げるような人だったっけ、と考えながら歩き出す。俺と和泉は徒歩通学で、お互いの家の方向も駅とは真逆だ。
駅に向かう道とは違って車も滅多に通らない閑静な道を、二人で並んで歩く。手はつながない。
道路には俺たちの他には人影がひとつもなかった。
「それで、なんで急に俺と一緒に帰りたいなんて言い出したんだよ。まさか本当に俺と一緒に帰りたいだけってわけじゃないんだろ?」
「よくわかってるねぇにーさんは。いやよくわかってくれてないほうがあたしとしては好都合なんだけどさ」
「そんで、じゃあ本当の用件は?」
「水無瀬のことなんだけど」
今日も和泉は水無瀬さんのことを呼び捨てで呼んでいた。当然のように、呼び捨てで呼ぶのが一番自然だろうと暗に伝えているかのように、水無瀬さんのことを呼び捨てにした。
俺は水無瀬さんが呼び捨てにされたからって怒らないし、そもそも怒る権利もないけど、でも疑問は持ってしまう。
なぜ和泉は水無瀬さんのことを呼び捨てにするのか。
「あのさぁにーさん、これ以上水無瀬に突っかかってたら、あの人不登校になちゃうかもよ」
「え、不登校?」
不登校?
不登校って。不登校とは。
「うんそうそう不登校。てかもう既に水無瀬は不登校になってるまであるかもしんない。手遅れかもしんない」
不登校、不登校、不登校。
脳の中でその三文字が何度も反芻される。脳内がその三文字で埋め尽くされる。
水無瀬さんが不登校?
俺のせいで?
学校に来なくなる?
俺のせいで?
「なんでまた急に、不登校なんて」
「なんでって言われても特に理由はないんだけど……。うーん、なんか水無瀬の雰囲気的にそんな感じがしたから」
「雰囲気って、なんだよ……」
「なんかつらそーって意味だよ。今の水無瀬は辛そうに見える。古泉くんのあんまり女の子いじめるなよってセリフも、あながち冗談じゃないのかもね」
冗談じゃないと言いたいのはこっちのほうだ。なんだよそれ。なんで俺のせいで水無瀬さんが不登校になるんだ。
俺はただ、水無瀬さんに歩み寄ろうとしていただけで。
俺はただ、水無瀬さんと仲良くなろうとしていただけで。
お近づきになろうとしていただけで。
俺は水無瀬さんに迷惑なことなんて一度もしていないはずだ。嫌がらせやいじめなんてもってのほか、絶対にやっていない。やっているはずがない。
それがなぜ。それがなぜ、不登校につながる?
俺が水無瀬さんに歩み寄ろうとしたことが、なぜ不登校につながるんだ?
「あのさぁにーさん。にーさんはときたま、他人の感情の変化に鈍感なときがあるんだけど、それは自覚してる?」
「自覚してない。というか鈍感になることなんてない」
「あるんだよ、にーさんにはそういうときがあるの。あたしは幼馴染だから、ずっと見てきたからわかるんだよ」
和泉によれば俺は他人の感情の機微に鈍感らしい。自分では自覚できていないけど、客観的に見てそうなのならば、俺は確かに鈍感なのだろう。
だから、俺は水無瀬さんが辛そうにしているのがわからなかったのか?
耳鳴りが聞こえてきた。
「まぁ、あたしも表情とかから読み取っただけだから、水無瀬が本当のところどう思ってるのかは水無瀬本人しか知りえないんだけどさ。でも、ねぇ……」
少し言いにくそうにして、語尾を曖昧に濁す和泉。
俺は片方の肺がぺしゃんこに潰れてしまったかのような感覚に襲われていた。
自分の頭の位置がよくわからなくて、視界の輪郭が曖昧になっていく。
「あたし、一年のとき水無瀬と同じクラスだったんだけどさ。水無瀬、一時期学校ずっと休んでたことがあるんだよね。そんときに水無瀬がしてた表情と、今の水無瀬の表情がなんか似てるっていうか……」
和泉と水無瀬さんが一年生のころ同じクラスだったとは初耳だ。俺と和泉は一年生のころは違うクラスだったはずだから、つまり俺は一年生のときは水無瀬さんとも違うクラスだったわけだ。そこに、一年生の頃の話に、和泉が水無瀬さんのことを呼び捨てにする理由が隠されているんだろうか。
いや今はそんなことはどうでもいいんだ。無意識に関係のないことを考えて、目の前の現実から逃げようとする自分の思考回路に腹が立つ。
「それじゃあ、俺は、どうすればいいんだよ」
「え?」
「水無瀬さんが不登校になったら、俺はどうすればいいんだよ」
「そんなのあたしにだってわかんないよ」
「…………」
「それはじゃあ、あたしとにーさんで一緒に考えよっか」
ふふっと軽く笑って、和泉は俺の顔を覗き込んできた。
明るい表情。明るいオーラ。明るい感情。穏やかに包み込むような暖かい光。
少しだけ胃が軽くなる。
「考えるっていったって……」
「でもどのみち明日になってみないとなにもわかんないよね。全部あたしの勘違いで、水無瀬がけろっとして普通に学校にくるかもしれないし、あたしの予想通りに本当に学校に来ないかもしれないし、はたまた保健室に登校してくる可能性だってあるしね」
「まぁ、そうか。明日になってみないとわからない、ね……」
「そうそう。だから今から何を考えても仕方ないっていうか」
それから和泉は急に話題をがらっと変えてきた。それは本当に取るに足らない、くだらない、数時間後にはすべてを忘れてしまいそうな、意味も価値もないような話題だった。話題自体に意味がなければ、その話題を繰り出す意味も同様になかったのだろう。
そんなくだらない話をし続けていたら、いつの間にかお互いの家に到着していた。俺たちの家はどちらも一軒家で、お互いの家が向かい合った立地になっている。別れの挨拶とともに玄関の扉を開けて、その日は和泉と別れた。
いつの間にか俺の耳鳴りは聞こえなくなっていた。
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