第3話
あれから何事もなく時間だけが過ぎ去って、昼休み。
朝の時間にあの会話を交わしただけで、俺は昼休みまでの約三時間半ほど、彼女と全くコンタクトをとることができなかった。これでは到底彼女とお近づきになることなどできないかもしれない。やばい。
でもひとつ、希望という名の進展があった。ひとつ、彼女についてわかったことがあった。
彼女の名前がわかった。
彼女の名前は
そしてもうひとつわかったことがある。いや、これはわかったことというよりも俺の個人的見解なんだけど。
つまり水無瀬さんには自信がなさ過ぎるのだ。
たとえ水無瀬さんが宇宙レベルの美人ではなく、ただの有象無象の一般的な女子高生だったとしても、水無瀬さんには自信が不足しすぎている。
健全な人間が、自分のことを美人だと言ってきた相手に対して、あなたは性癖が歪んでいるなんて返事をするだろうか。
性癖が歪んでいるってなんだよ。
謙遜の域を大きくはみ出ている。
「まぁ、確かによく見ると美人かもな……」
椅子を逆向きに、背もたれに腹をくっつけながら俺の机に置いた弁当を箸でつついていた古泉が、ちらと水無瀬さんに視線を向けて言った。
「美人かも、じゃない。ちゃんとしっかり美人なんだよ」
水無瀬さんは今もひとりで、誰と席をくっつけ合わせるでもなく自分の席に座って、俯いている。俯いて片手でカロリーメイトをかじってもう片方の手でスマホをスクロールしている。水無瀬さんの席は隔絶された絶海の孤島のように見えた。
そして水無瀬さんは、その孤島でたった一人なのに、なぜか楽しそうに人生を満喫している女の子のように見える。あるいは、台風の目のなかで嬉しそうに笑っている人。いずれにしても変人に見えることに変わりない。
陰気な黒いオーラを纏っているのに、当の水無瀬さんの表情は明るい。孤独を楽しむ孤高ってやつか?
「でも、あんな陰気なオーラ纏っちゃってると、あんまり近づきたくはないよな……」
「まぁ、それはそうだけど、オーラとか雰囲気なんていくらでも変えられるだろ。女の子はいくらでも変身できるんだよ。プリキュアが毎週あんだけ変身してるんだから、水無瀬さんが変身できないわけがない」
「バカかお前」
「ぐ……」
超冷静に冷徹に俺を評する古泉。
「た、たとえ話だよ。女の子に限らず人間だれしも、雰囲気やオーラなんていくらでも変えられるんだって。だから水無瀬さんだって、最強の女子高生になることはできる。十分すぎるほどの素質は持ってるんだからさ」
「でも、あれに限ってはそうはいかないんじゃないか?」
また、ちらと水無瀬さんに視線を寄越しながら言う古泉。俺もつられて水無瀬さんへと視線を向ける。
水無瀬さんはカロリーメイトのゴミを机の上に放ったまま、朝と同じようにスマホを横持ちにして、なぜかにやつきながら画面をどかどか叩いていた。
昼食はカロリーメイトだけで終わりなんだろうか。
「一人でも普通に平気そうにしてる、っていうか、むしろ楽しそうにしてるだろ。水無瀬さんは今の状況から変わろうと思ってない。今の自分に満足してる。そんな人間が、自ら陰を振り払って輝けるようになると思うか? 変わる意志ののない人間が変われると思うか?」
「根本的な部分を変えれば……」
「人の根本的な部分なんてそう簡単に変わるもんじゃないぞ。三つ子の魂百までだからな。限りなく不可能に近い可能だ」
水無瀬さんに人があまり寄り付かないという問題をなしにしたところで、俺が水無瀬さんとお近づきになるうえで水無瀬さんのあの陰気なオーラを振り払うことは必要不可欠だ。水無瀬さんの陰気なオーラを払わなければ、水無瀬さんの魅力は半減、いや三分の一になってしまう。もったいないことこの上ない。
水無瀬さんに、明るく元気に輝く女の子になってもらわないと、困る。
「ま、まぁ、何事もやってみなきゃわからないだろ? 初めから悲観していたってなにも始まらない」
「そりゃそうだけどな……」
ややあって俺は昼飯である菓子パンを二個食べ終わり、席を立ってゴミを捨てて、そのついでを装って水無瀬さんに話しかけることにした。幸いにも水無瀬さんには話しかける隙が余りあるほどにある。水無瀬さんは常に誰と話すでもなく一人で何かをしているから、なんなら隙しかないようなものだ。行動するための状況は十分に整っている。
だったらとりあえず、行動してみるしかない。悲観しかできないのなら、まず行動してその悲観をぶっ潰す。
だって、彼女の美しさには俺しか気づいていないのだから。俺が最初に気付いたのだから。
俺だけが気付いている彼女の美しさなのだから。
俺が責任を持って、ものにするべき。
独占するべきだ。
これが恋なのかは知らない。
「ねぇ水無瀬さん。昼ご飯がカロリーメイトだけって「ごきげんよう天野くん。ちょーっとこっちに来てくれるかな?」
「えっ」
突然、俺と水無瀬さんとの間に文字通り割って入ってきた幼馴染である
そんな和泉がなぜ急に俺の手を引く?
和泉は俺の腕を引っ張って、廊下に出てもまだ引っ張って引っ張って、引っ張って引っ張って引っ張って、ついに廊下の端の階段まで来たところで、和泉が立ち止まった。そして俺の腕から手を離す。和泉は相当強く俺の腕を掴んでいたので、じんじん腕が痛んだ。制服の下には赤い痕が浮き出ているかもしれない。
廊下の端の薄暗い階段の踊り場で、和泉がくるりと振り返る。その表情はなぜか膨れっ面だった。和泉の膨れっ面は、あざとくやっているものなのか本気で怒っているものなのか判別がつかない。
「な、なんだ?」
それからずんずんと俺ににじり寄って、俺の顔を見上げる和泉。その目にはメラメラと燃える火が灯っているようにも見える。やはり怒っているのか。
和泉は何に対して怒っている?
「なに急に色気づいちゃって!」
「…………え?」
唐突に何の脈絡もなく怒鳴られた。
「あんなに異性に興味がなくて、性欲が絶無だとしか思えないようなにーさんが、なんで今日になって急にあんな女に話しかけてんのっ?」
そういえば、和泉は俺のことを『にーさん』と呼んでいたことを俺はすっかり今の今まで忘れてしまっていた。俺が和泉よりたった三か月だけ早く生まれているというだけのことで、和泉は俺のことを馬鹿みたいににーさんと呼んでいたのだった。
いや、それにしたって、そんな呼び名を和泉が人前で使っていたのはは小学校低学年までの話だし、というか高校生が『にーさん』なんて恥ずかしげもなく言うのはなんだかおかしいし、女子高生としてこれ以上ないくらいに輝いている和泉が俺ごときのことを『にーさん』と呼んでいるのはなんだかちぐはぐとした違和感を感じる。
……いや、今は俺の呼び名なんてどうでもいい。
「な、なんだよ、それ。突然どうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもないよ! なんでよ! なんでにーさんがあんな女に興味を持つの? なんで恋も愛も恋慕も愛情もなにもかも知らないにーさんが、急にあんなぱっとしない女に興味を持つのっ?」
荒い息遣いでずばずばまくし立ててくる和泉。なにをそんな必死になることがあるんだろうか。
「べ、別に俺だってなにもかも知らないわけじゃないし、水無瀬さんがぱっとしない女の子なんてことは絶対にないし……」
「にーさんはなんにも知らないじゃん! にーさんが一度だって女の子に告白したことがあった? にーさんが一度だって女の子に熱い視線を向けたことがあった? にーさんが一度だって誰か特定の女の子を追いかけたことがあった? 一度だってにーさんに彼女ができたことがあった? 全部一度もないでしょ?」
俺の胸を指先で小突きながら詰問してくる和泉。
「ま、まぁ確かにそれは一度もなかったけど……それは異性に興味がないからしてなかったってわけじ「違うよ絶対違う! にーさんが異性に興味を持ってるはずがない!」
俺が喋っている途中に無理やり割り込まれた。
俺はこんな幼馴染、久しく見ていなかった。こんなに必死で声を荒げて、一生懸命に何かを訴えている幼馴染を、俺は久しく見ていなかった。俺たちがお互い小さかったころ、それこそ幼稚園児とかだったときは、和泉は周りの女の子とは比較的活発でお転婆な女の子だったから、しょっちゅう誰かと声を荒げて喧嘩していた。だが、いつからか和泉は、成長するにつれてそれとは真逆の穏やかな女の子に変わっていった。おとなしくて引っ込み思案というわけではないけど、それでもだいぶ穏やかになった。
そう、それこそ春の日和のような、そんな穏やかで優しい女の子になった。
そんな和泉が、なぜこんなに声を荒げて、なにをそんなに必死になって。
「だって、それなら、こんだけ頑張ってるのに振り向いてくれないなんて……」
「振り向く?」
「だー! とにかくさぁ、にーさんはなんで水無瀬のことそんなに気に掛けんの? 朝だって声かけてたし、さっきまでだってずっと見てたし……」
語尾にいくにつれてしゅんと口をすぼめる和泉。今日の和泉は感情の入れ替わりが激しい。クラスにいるときとは印象が違いすぎる。
こんな子供っぽい和泉は、やはり俺は久しく見ていない。
「なんでって言われると……」
「なんで?」
その理由はもちろん、水無瀬さんが宇宙一美しいからなのだけど、はたしてそれをそのまま和泉に言ってもいいものだろうか。
古泉にそれを言うならともかく、和泉に対して、女の子に対してそれを言うのはなんだか憚られる。いやでも、別に言ってしまったところで俺はなにも変なことは言っていないのだから問題はないし構わないのだけど、それでも思春期的羞恥心が働いて、和泉にそれを言うのはなんだか嫌だ。
嫌なのだ。俺の感情の問題で、本当の理由を和泉に言うわけにはいかない。
「……あー……、あの、ほら、水無瀬さんってあんまり友達いないし、寂しそうだったからさ、俺が水無瀬さんの友達になってあげようかと思って。それでちょっと声かけてみたり観察したりしてただけだよ」
「……はぁ? なにそれ」
拍子抜けたように、呆れた表情で和泉は首をかしげた。
「にーさんってそんなことするような人だっけ?」
「え。そ、そんなことするような人だよ、俺は。困っている人は助ける。弱きを助け強きをくじく、俺はそういう人間だ」
「……はあ、ちょっと意味わかんないけど、とにかくにーさんは水無瀬が好きっていうわけではないんだ?」
「ま、まぁ、そうだな」
これが恋心であるかどうかは俺も知らない。
「……ふーん、そっか。じゃあいいや。教室戻ろっか。もうそろ昼休みも終わるしさ」
和泉はさっきまでの怒号が幻だったかのように表情をころっといつもの快活な笑顔に戻して、そして歩き出した。
俺も慌てて和泉の隣について歩き出したけど、教室に戻るまで和泉が口を開くことは一度もなかった。無表情で黙って、淡々と廊下を歩き続けるだけだった。
まあ、そんなことはともかくとして。
俺のなかにひとつ、疑問が残った。
なぜ和泉はずっと、水無瀬さんのことを呼び捨てにしていたのだろうか。
和泉と水無瀬さんは、お互いを呼び捨てで呼び合うほどの関係ではないように見える。いやそもそも、和泉と水無瀬さんの間に関係なんてものは存在しないように見える。
それなのに、和泉は当然のように水無瀬さんのことを呼び捨てにした。
どうしてなのだろうか。
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