3

 真琴は暗闇の世界にいた。

(何だろう、この感じ。とても懐かしいような気がする。こんな所に来た覚えなんてないのに)

 後ろの方に誰かがいるような気配がしたので振り返ると、そこには見覚えのある人が立っていた。

 毎日鏡の前で会うことができる――。

「って、私じゃないっ」

 真琴は自分の前に鏡でも置かれているのかと思い近づこうとしたが、二人の距離は少しも縮まらなかった。

 それどころか、目の前の自分は微動だにしなかった。

 真琴は息が乱れるほど動いていたというのに。

(……鏡じゃない……?)

「正解」

 もう一人の真琴は表情一つ変えずにそう言った。

「私の、心のコエが聞こえるの?」

「いいえ。でも、私はあなただもの。あなたが思っていることくらいわかるわ」

 それはおかしいと真琴は思った。

 彼女の言っていることが本当なら、どうしても納得がいかないことが一つある。

「でも、それじゃどうして私にはあなたの心のコエがわからないの?」

「それは、あなたが私の心のコエを聞こうとしているからよ。自分の心のコエが聞こえるわけないじゃない」

「どうしたら、わかるの?」

「前に一度教えてあげたんだけど、忘れてしまったのならいいわ。もう一度教えてあげる」

(前に一度? 彼女とは今初めて出会ったはずなのに……)

 彼女は真琴の疑問に気づいていただろうに、それには答えず自分の話を続けた。

「自然にわかるようになるわ。あなたが自分の――」

 そこまで言ったところで突然目の前がテレビの砂嵐画面のようなもので覆われてしまった。

 後に残されたのは「ザー」という耳障りな音だけ。

「ちょ、ちょっと。どういうことよっ」

 真琴がそう言って一歩踏み出した瞬間、奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われた。

「きゃああああぁぁぁ……」


 ガバッとかけられていた布団をはね退けて、真琴は目を覚ました。

(なんだろう。何か大切なことを誰かに言われたような……)

 しかし、いくら考えてもそれは思い出せなかった。

 仕方なく辺りを見渡すと、真琴は再び病院のベッドの上にいたということはわかった。

 不意に強烈なデジャヴュに襲われる。

 真琴は、もしかしたら自分は落雷に遭ったあの日からずっと寝ていたのではないかと思い始めていた。

 不思議な能力を手に入れたのは都合のいい夢なのではなかったのかと。

 真琴の病室は個室で、以前目覚めた時とほとんど変わらなかった。

 まあ、病室なんてどこも似たようなものだとは思うけれど。

 やはり、カレンダーがなかったので今が何月なのかもわからない。

 以前と同じならベッドのサイドテーブルの上に壊れたスマホが置かれているはず。

 だが、そこには何も置かれていなかった。

 それだけが以前目覚めた時と違っていた。

 窓の外を見ると、以前と同じ美しい夕焼けが広がっている。

 もうそろそろ看護師さんが来るはず。

 今度はノックの音も聞き逃したりしない。

 暫くすると、案の定コンコンと小さく二回ドアを叩く音が聞こえた。

(ほらね)

「はい、どうぞー」

 よく通る声ではっきりと返事をした。

 すると、病室のドアには鍵なんかかかっていないのに、ガチャガチャと二度三度ノブを回し、乱暴に開け放たれた。

「お……大崎、真琴さん?」

「はい、おはようございます」

 違った。いや、看護師さんが入ってきたことは間違いないのだけれど。

 堀田さんではなかったのだ。

 しかし、リアクションだけは同じだった。

 その看護師さんは真琴の挨拶を聞きもせず、ぶっきらぼうにドアを閉めて先生を呼びに行った。

 先生も違うのだろうか。まさか、病院まで違うということはないだろうが。

 この世界が現実で、以前目覚めた世界が夢だったとしたら細部に渡って同じではないのも仕方ないかなと真琴は思った。

 真琴は再び夕焼けに染まる外の世界に目を向けた。

 そして、ここ一ヵ月半体験したことを振り返った。

 もしそれらが全て夢だったとしても、いろいろと考えさせられる貴重な体験をしていたから。

 始まりは勇壱の告白だった。ひねくれた態度を取り続ける彼に一方的な怒りをぶつけて傷つけた。

 次に聞こえたのは薫の想いだった。安易に関わったがために、彼の重大な秘密を知ってしまった。

 そして、その次には由紀子の告白されてしまったのだ。心のコエが聞こえる聞こえないに関係なく、あんなに身近にいた人のこともわからないのかと、自分に嫌気がさした。

 最後に聞こえたのは美希の本心だった。誰よりも好かれていると思っていたのに、真実は真逆だった。

 心のコエを聞くことができるという能力は真琴に何をもたらしただろう。

 他人の心をわかりたいと思うことはあった。

 他人のことをわかることができたら、今よりも人との付き合いがいい方へ変わるのではないかと。

 理由はいろいろあるけど、一番のきっかけは勇壱に振られたことだと思う。

 あの時ほど、他人の心がわかりたいと思ったことはなかった。

 もしわかっていれば、あんなに傷つくことはなかったのに、と。

 無意識の内にそう思っていた。

 じゃあ、心のコエが聞こえるようになって人間関係がよくなったのかというと、実際にはそうならなかった。

 強い想いしか聞こえないという中途半端な能力でさえ持て余していたのに、全ての心がわかるようになってもきっと扱いきれるわけがないのだ。

 それがわかっただけでもあの不思議な体験が無駄ではなかったといういい証拠だった。

 これからはもう、あの不思議な能力には頼れないのかもしれないけれど、何だか前向きに生きていけるような気がした。

 再びドアをノックする音が聞こえた。さっきよりも少し音が大きい。

 たぶん先生だろう。

「はい、どうぞ」

 真琴がそう言うと、静かにドアを開けて二人入ってきた。

 一人はさっき入ってきた看護師、そしてもう一人は見覚えのある先生だった。

 ネームプレートも同じ、ということはこの病院の外科と脳神経外科を担当しているはずの中野先生だ。

((はぁ……。まさか看護師から告白されるなんて……。僕は医師として彼女に何か間違った接し方をしていただろうか))

「久しぶりだね、大崎さん」

 真琴は目が点になっていた。

 そして、自分がいかに浅はかなことを考えていたのか思い知らされた。

 中野先生の想いは決して強い想いではなかった。

 静かに心の底で悩んでいるような想いだった。

 気になったのはそれだけではない。

 一度も聞くことができなかった中野先生の心のコエが聞こえたのだ。

 倒れる前より能力の性能が高くなっているのは明白だった。

 ――全て、現実だったのだ。

 決して都合のいい夢などではなかったのだと思い知った。

「お、お久しぶりです」

 真琴は心を取り繕いながら生返事をした。

「まさか、退院させてから一ヶ月もしない内に戻ってくるとは思わなかったよ」

「はぁ……」

「でも、ま、正直な話あまり心配していないんだよね。今回は前と違って昏睡状態だったわけじゃないしね」

 だったらどうしてまた病院に来てしまったのだろうか。

 気を失ったくらいなら普通保健室とかで様子見になるはずなのに。

「また、入院するんですか?」

 真琴が不安げな顔を向けると、中野先生は以前と変わらぬほほ笑みを返した。

「僕としてはその必要はないと思ってるんだけど。君のご両親が心配していてね、一週間の検査入院をしてもらうことになってるんだ」

「そうですか、わかりました」

 きっとここへ連れてきたのも両親だろうなと思った。

 まあ、奇跡的な復活から二ヶ月も経たない内に倒れてしまったのだから心配もするか。

 こうして、真琴の入院生活は再び始まってしまった。

「ところで、中野先生」

「うん? 何だい?」

「堀田さんはどうしたんですか?」

「え゛!? あ、いや……実はちょっと休暇中でね。君の世話はこの植木麻美子君がするから」

 見ているこっちが恥ずかしくなるくらいドギマギしながら、隣に立っていた看護師を突き出した。

((まさか、既婚者の僕に告白したことが問題になって謹慎中だなんてことは、口が裂けてもいえない))

(へぇ。常に冷静に見える中野先生も自分のことになるとそうもいかないのね)

 真琴は満面の笑みを二人に向けて植木さんと握手を交わした。

「よろしくお願いします」

「ええ、こちらこそお願いしますぅ」

 甘ったるい声でそう言った彼女は何だか見ているだけで脱力しそうなくらいおっとりとした看護師だった。

 最初に病室へ入ってきた時とは大違いだ。

 きっとさっきはよっぽど気が動転していたのだろう。

 何にしてもまだ退屈な毎日が始まってしまう。一週間の限定だけど。

 今回はお見舞いの許可が下りているので前回よりは暇潰しが楽になった。

 しかし、それはそれである意味憂鬱な気分にもさせる。

 お見舞いには必ず美希も来るだろうから。

 全てが現実だったとわかった以上、この問題からもう目を逸らすことはできない。

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