4

 いつまで立ち続けていただろうか。

 五分。十分。いや、それとももう一時間くらい経ってしまったのだろうか。

 真っ暗な教室はとても静かだった。

 聞こえてくるのは時を刻む針の音だけ。

 第六感も含めた全ての感覚が研ぎ澄まされていく。

 そんな気がした。

 そのせいか、由紀子がさっき出て行った扉の陰に誰かが隠れていることに気づいた。

「誰!?」

 反射的にその誰かを問いただした。

 開け放された教室の扉に男子生徒らしき人影が入ってきた。

 次の瞬間、教室の中が一気に明るくなった。

「ゆ、勇壱……」

 扉の所に立っていたのは勇壱だった。手を蛍光灯のスイッチにかけたまま申し訳なさそうな顔をしていた。

「ごめん、聞くつもりはなかったんだ……」

 神妙な顔で、勇壱はフラフラと教室に入った。

「いつから、そこに……?」

「え……と。その、辻堂が『嘘っ』とか言っていた辺りから……かな」

「それじゃほとんど全部聞いてたのね」

 強く言うつもりはなかったのだが、自然と詰問するようなかたちになってしまった。

「……ごめん。すぐに離れるべきだったんだけど、下手に音を立ててお前らに気づかれたらって考えたら、動けなくなってた」

 勇壱は別人かと思うほど素直に自分の非を認め、二人の話しを聞いてしまったことを謝った。

「だいたい、どうしてこんな時間に教室へ来たのよ」

「あ、それは……」

 勇壱は自分の机の中を漁り、一冊の教科書を取り出した。

「数学の教科書? ……ああ、そういうことね」

 今日は数学の授業で宿題が出されていたのだった。

「まあな。忘れ物なんて一度もしたことなかったのに、こんな日にするなんて俺も間が悪いよな……」

 何だか、気が抜けた。勇壱が本当に偶然居合わせたとわかったから。

 さっきまでの張り詰めたような緊張感はもうなくなっていた。

 いつになく自信なさげな勇壱を見ていたら不思議と真琴も素直な気持ちになれた。

「間が悪いのはお互い様じゃない?」

「は?」

「先々週、テニスコートの裏の銀杏の林」

「あっ……」

 あの時真琴は、勇壱が告白される場面を目撃してしまい、すぐに帰ればよかったのに噴水広場で惚けていたせいでいざこざに巻き込まれたのだ。

 しかもその上、勇壱にひどいことを言ってしまった。

「……ごめん。あの時私、勇壱に――」

「え? いや、真琴に謝ってもらうようなことはないぜ」

「何で?」

「あれは、俺が馬鹿だっただけだ。真琴は何も悪くない。俺は自分のことしか考えてなかったんだ。だから真琴をダシにして楽に断れる方法を選んだ。……最低だよ。俺はもっと正直に自分の気持ちを伝えるべきだったんだ。そうすればきっとあの子も真琴も傷つけることはなかった」

 そこまで言うと、勇壱は真琴の正面にすっくと立ち、深々と礼をした。

「ちょ、ちょっと……」

「本当に悪かった。許してもらえるなんて思ってないけど、せめてただのクラスメイトとしてでも接してくれないか?」

 ……似ている。

 前々から薄々感じていたけれど、この言葉は決定的だった。

 内容は多少違うけど、同じような意味の言葉を言おうと思って真琴も用意していたのだ。

 優しく答えてあげることもできたかもしれない。でも、それはらしくない。

 それに、勇壱の言葉には一つふに落ちないことがあるし。

 真琴は少しだけ自分の気持ちに正直になった。

「嫌よ」

 勇壱の頭は下げられたままピクリともしない。

 真琴はさらに続けた。

「ただのクラスメイトとして接するなんて絶対お断りよ。そりゃ、私たちはさ、お互い憎まれ口ばっかり叩いているけど。一応、友達じゃない? ケンカしたからって、私はその関係まで白紙に戻したいなんて思ってないわ」

 勇壱は顔を上げて、喜怒哀楽のどれにも当てはまらないような複雑な表情を向けた。

「許してくれるのか?」

 それは違うと思う。

 真琴と勇壱はお互いに過ちを犯していたのだ。

 どちらにも相手を許す権利なんてものはない。

「許すも許さないもないわよ。私は勇壱と今までどおりの付き合いをしたいと思ってる。勇壱はどう思ってるの?」

「俺も同じだよ」

「だったら、それでいいじゃない」

 大事なのは今の気持ちのはずだから。

 それに、答えを曖昧にしたことには別の理由もあった。

 勇壱は「断る口実に真琴を使ったこと」を謝っていた。

 しかし今わかったのだが、あの時真琴が怒ったのはそのことではなくて、好きなはずの自分に対しても嘘をついたからだった。

 この気持ちはわかってもらえないと思った。

 真琴自身うまく説明できそうになかった。

 納得させるには、きっと能力のことも話さなければならないし。

 だから、答えを濁しておいたのだった。

「クククッ……」

 急に教室に笑い声が響いた。

 何事かと勇壱はびっくりしている。この様子だと勇壱も幽霊の類が苦手みたい。

 どこまで真琴に似ているのやら。

 当の本人である真琴はというと、笑っていた。だって、その笑い声の出所が自分だって知っていたから。

 やっとそのことに気づいた勇壱は、ジト目を向けて文句を言った。

「何笑ってんだよっ」

「だって……ハハハッ、しょうがないじゃない」

 涙を堪え、おなかを抱える。

 中々話が進められない。

「だから、何がだよっ」

 意味がわからないことにいらついてか、勇壱の語尾は強くなっていた。

「プックククッ……。勇壱が、アハハハッ」

「俺が?」

「別人みたいなんだもん」

「な……にぃ……」

 そう言ったまま勇壱は硬直してしまった。

 開いた口がふさがらないっていうのは、こういうことなんだろうなと思った。

「クククッ……。そうじゃない? 素直な勇壱なんてらしくないにもほどがあるわよ。本当に神田勇壱よね? 双子の弟だったりしたら怒るわよ。クククッ」

「あのなあ……。それを言ったら真琴だってさっきずいぶん友情について熱く語ってなかったか?」

 む。それは、そうだけど。いや、ここは挑発に乗っちゃダメだ。

「あら、そんなこと言ったかしら?」

「ブフッ……アハハハッ」

 どうやら誤魔化し切れなかったみたい。

 勇壱はいきなり吹き出した。

「な、何よ」

「らしくないのは、もうお互い様だろ?」

「フッ……それもそうね」

 二人してけたけたと笑い合った。

 ああ、何だか胸がすっとする。

 勇壱はきっと深く考えすぎていたに違いない。真琴と同じように。

 二人とも馬鹿だったのだ。

 答えはもっとシンプルでこんなに簡単なことだったのに。

 自分の想いを素直に表現するということが、悩みを解決させるには一番の方法だと思った。

 ついこの前までため息をついて苦しんでいたのが嘘のように晴れやかな気分だった。

 勇壱に関しては。

 一難去ってまた一難。

 勇壱のお蔭で忘れかけていたけど、真琴にはもうすでに憂慮すべき新たな問題が勃発していた。

 由紀子からの告白。

 どう答えればいいのだろうか。

 好きか、嫌いかと問われたら、そんなものは考える必要すらない。

 好きに決まっている。

 でもそれは友達としてであって、愛してるとは違う。

 この気持ち、上手く伝えられるだろうか。

 いや、たとえ下手でも自分の気持ちを素直に言えれば、今度こそわかってくれるはず。

 そう信じたい。由紀子は一番の親友だから。

 ただ一つだけ真琴一人では解決できない問題がある。

 由紀子の誤解を解くには、どうしても薫の協力が不可欠だった。

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