5

 何だかんだ言っていたのに、もう一週間も勇壱と一緒にお昼を食べて、一緒に帰宅していた。

 今日も一緒にお昼を食べたのに、一緒に帰ろうと思っていたら勇壱の姿は教室からなくなっていた。

 時計を見ると、まだホームルームが終わってから十分くらいしか経っていない。

 ぼけっとしていて置いていかれたわけではない。

 由紀子と雑談していたほんの十分の間に勇壱の方が勝手にいなくなったのだ。

 でも、一緒に帰る約束をしていなかったのだから、あまり責められないけれど。

 走れば追いつくかもしれないと思った真琴は、急いで鞄を持って廊下を駆けた。

 下駄箱に着いたところでタイムロスだとわかってはいたが、勇壱の所を確認する。

 そこにはすでに上履きが収められていた。

 思ったとおり、勇壱は先に帰っていた。

 真琴も靴を履き替えて、昇降口を駆け抜け、噴水広場も駆け抜けた。

 並木道まで来て、真琴はやっとスピードを落とした。

 勇壱は真琴が通ってきた場所にも、ここから見渡せる辺りにもいなかった。

 これ以上走っても無駄だと思った。

 トボトボと並木道の真ん中まで歩いて来たが、このまま一人で帰る気分じゃなかったので真琴は引き返した。

 それに、なんとなく嫌な予感もしていたので。

 さりとて、特にすることのなかった真琴は久しぶりにテニスコートへ向かった。

 部活はまだできないけれど、部長に元気な顔だけでも見せておこうと思った。

 小気味よいボールの音が響いてくる。

 六面あるテニスコートの一番左端の所に部長の姿が見えたので、事故防止用の金網沿いに歩いて近づいた。

 部長に挨拶しようとして、真琴はギョッとした。

 テニスコートの裏手にある銀杏の林に、二人の人影を見つけたから。

 視力は両目とも1.0。特によかったわけでもないのにわかってしまった。

 二人の人影の内一人が遠目にも勇壱だということが。

 もう一人の方は、誰かはわからないけれど女子だった。

 着ている制服からそれくらいは判断できる。

 何をしているのだろうか。

 いや、それは不粋じゃないか。

 人目につかないような場所で、男女が二人っきりで会うということは――。

((神田君のことが好き))

 真琴は意識を二人の方へ集中させようとしていたが、その前に聞こえてきた。

 彼女の溢れるような想いが込められた心のコエが。

「あれ、久しぶりじゃない大崎。どうしたの?」

 突然聞こえてきた声に真琴は現実に引き戻された。

 金網一枚隔てた向こう側、真琴の正面に部長がすっと立っていた。

 真琴は挨拶しなきゃと思っていたが、声が出せない。

 聞きたくもないコエが聞こえてくる。

((神田君のことが好き))

 うるさい。

((神田君のことが好き))

(うるさい!)

 真琴は再び勇壱たちの方を睨んだ。

 ふと振り切ったはずの苦い思い出が蘇った。

 勇壱があの事件の時と同じ、悪意を込めた雰囲気を漂わせていたのが伝わってきた。

 真琴はいても立ってもいられず、逃げ出すようにその場から離れた。部長が何か叫んでいたような気はしたけれど、現実の声は心のコエに掻き消されて聞くことはできなかった。

 一心不乱に走って、気がついたら噴水広場まで来ていた。

 真琴は荒くなった息を整えようと、近くにあったベンチに座った。

 一ヶ月ぶりに全力疾走したせいか、心臓が高鳴っていた。

 たぶん、理由はそれだけではない。

 でも、これ以上はもう何も考えたくなかった。

 真琴はそこでずっと噴水を眺めていた。

 いつまでそうしていたのかわからない。

 時計を見れば、すぐにわかるのに真琴はそんなことさえ億劫だった。

 目の端に誰かが映った。

 特に気を引くような生徒ではない……はずだった。

 いつもなら、素通りしているような。

 しかし、それはできなかった。

 真琴は自分の前を横切ったその生徒の顔をチラリとだけ覗いた。

 顔の見覚えはなかった。もちろん、学年もクラスも知らない。

 印象としては、ちょっと小柄で男受けしそうなタイプで、これといって真琴の心に残るような女子ではない。

 というより、そもそも真琴はクラスメイトにさえ興味を持ったことなどなかった。

 赤の他人にここまで惹かれたのは初めてだった。

 その女子生徒は傍目にも落ち込んでいるのがわかるくらい重い足取りで並木道の方へ向かった。

 その姿を見て、直感的に気づいた。

 その女子生徒こそ、さっき勇壱に告白していたもう一人の人影だったのだと。

 彼女は並木道の入り口で急に何かを思い出したかのように足を止め、振り返ってこっちに向かってきた。

 彼女は真琴の前で仁王立ちし、怪訝な表情で聞いてきた。

「あなた、もしかして大崎真琴?」

 別に嘘をつくようなことでもなかったので素直に答えた。

「そうだけど、何か?」

 本音を言えば、彼女が真琴と同じように勇壱にばっさり振られたであろうことは容易に想像できたので、妙な親近感を抱いていた。

 同類相憐れむ、みたいな。

 しかし、真琴の返事を聞いた彼女は急に険しい顔つきになり、両手の拳を震わせていた。

 目尻にキラリと光るものまである。

「何なのあなたたち? そんなに他人の不幸がおいしいの? あなたたちに人の心なんてあるの? ――――」

 彼女は静かに、でもとても強い想いを込めて文句を言って立ち去った。

 一瞬何が起こったのか理解できなかった。

 彼女の言葉で凍り付いてしまった思考を融かしながら考える。

 なぜ、あんなことを言われなければならないのか。

 ――わからない。

 なぜ、悪意を向けられたのか。

 ――これも、わからない。

 同じ痛みを味わった者同士、その苦しみを分かち合うならまだしも、一方的に責められる理由なんてない。

 答えは、彼女だけが知っている。

 そう思ったら考えるより先に反射的に体が動いていた。

 並木道を走って行くと、彼女は力無く歩いていた。

「ちょっと、待ちなさいよっ」

「……今さら、何の用?」

 抑揚のない声で彼女は言った。

「さっきの話、どういう意味なのよ? 私、あなたに何かした覚えないんだけど」

 彼女は目を細めて、薄ら笑いを浮かべて話した。

「二人して人のこと馬鹿にしておいて、よくそんなことが言えるわね……」

(二人……?)

 彼女を不快にさせたのは真琴だけではないらしい。

 しかも状況からして真琴の関係のある人が関わっているようだった。

(――って、まさか……)

 ついさっきまで何の接点もなかった彼女と真琴の共通点は一つしかない。

「……勇壱に、何を言われたの?」

「あなたのようなきれいな子と付き合ってるから、私みたいなブスはお断りだって」

 吹雪のような冷たい言葉を浴びて、真琴は心も体も凍り付いてその場に硬直した。

(あいつ、私にはブスだって言って振ったのに……。何てこと言ってくれたのよ)

 思えば最初からヒントは出ていた。

 勇壱に振られた彼女が、真琴に文句を言ったあの時に。

 「あなたたち」と。

 あのタイミングでその言葉に当てはまる人物は真琴と勇壱しかいない。

 混乱して気づかなかったせいで、彼女に馬鹿なことを聞いてしまった。

 ――彼女を、二度も傷つけてしまった。

(でも、なんて謝ればいいの?)

 いくら考えても答えは出てこなかった。

 それもそのはず、失言は確かに真琴のミスだったが、元々の原因は勇壱の方にあったからだ。

 この状況で真琴が何を言っても、イヤミにしか聞こえないだろう。

「お幸せに……」

 彼女は皮肉たっぷりにそう言い残し、風のように過ぎ去っていった。

 その言葉を聞いて思い出した。

 彼女はさっき聞き捨てならない重大なことを教えてくれていた。

 それこそが彼女にいらぬ誤解と、余計な傷を与えていたのだ。

 それを聞いた時は、彼女の冷たい態度にショックを受けて聞き流してしまっていたけど。

(……いつの間に、私と勇壱が付き合ってることになってるのよっ)

 今回はただの噂とは違う。

 勇壱本人が言ったというのだから。

 いったい、何を考えているのか。さすがに今回ばかりは真琴にも理解できない。

 何だか無性に腹が立ってきた。

 本心では素直になりたいと思っているのに、勇壱は真琴の前だと憎まれ口しか叩かない。

 なのによりにもよって、関係のない人の前で素直になるなんて。

(しかも、そのお蔭で私は憎まれる始末。全く何なのよあいつは!?)

 やりきれない思いを抱えた真琴はこのまま帰るなんてことはできず、校門の所で待ち伏せることにした。

 もちろん、勇壱を。

 そして、待つこと三十分くらい。

 校門から出てきた勇壱に、さりげなく声をかけた。

「私たち、いつの間に付き合ってたのかしら?」

「ま、真琴……。ど、どうせまたくだらない噂だろ。誰が言ったんだよそんなこと」

「神田勇壱って人が言ったんだって」

 笑顔を添えて、今までにないくらい優しく言ってやった。

「お、俺が? 何馬鹿なこと言って――」

「惚けるのはなしよ。その馬鹿なことをあなたがしたせいで、私がいわれのない非難を受けたんだから」

 もう茶番に付き合うのもうんざりだったので、勇壱の言葉を遮って核心を突いた。

「……あの子に、会ったのか?」

「まあね」

 勇壱は少しだけ困ったような顔をしてから言った。

「あの子にはさ、もう三度も告白されて断ってたんだけど、好きな人も付き合ってる人もいないのにダメってのは納得してもらえなくてな。……それで、つい……」

「私と付き合ってるって言ったわけね」

「ああ……」

「どうして私と、って言ったの?」

「どうしてって、それは……」

「それは?」

((真琴のことが好きだからに決まってるだろっ))

 ああ、何てじれったい。苦しいほどの本心が聞こえてくるだけに、真琴はそう思った。

 だから、少しだけ背中を押してあげた。

「私のこと、好きなの?」

 奇しくも、それはあの事件の時に真琴が勇壱に言った言葉と同じだった。

「そ、そんなことあるわけないだろ。第一前に言ったじゃねーか。俺はお前が嫌いだって」

 勇壱から返ってきた答えまであの事件の時と同じだったが、真琴の心だけはあの時とは違っていた。

 澄み止まった水面のように静かで落ち着いていた。

 勇壱はいつまでこんな不毛なことを続ける気なのだろうか。

 他人を苦しめて、自分をも苦しめているのにひねくれた態度を取る必要などありはしない。

 もうこれ以上、嘘と偽りを身に纏っている勇壱を直視していられなかった。

 本心を知ってしまっているから余計に。

 真琴は冷たく静かに言葉を紡いだ。

「あなたは最低よ。一生そうやって嘘をついて生きていくつもりなの?」

「――――!?」

 勇壱は言葉を失い、後ずさりした。

 十分間を置いてから真琴は真っ直ぐ見ていた目を逸らし、帰路へ向けた。

 そして、勇壱を捨て置いて、一人で帰った。

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