2
最初は気のせいだと思った。
そんなことができるわけないという先入観からか。
それとも、自分の身に起こった異変を認めたくなかったからか。
検査はいたって順調。
それがかえって真琴を不安にさせた。
先生に相談しようかとも思ったけど、怖くてできなかった。
信頼していないわけじゃない。
いや、信頼しているからこそ話したときの反応が怖かったのだ。
平穏無事に過ごしたければ無視してしまうのが一番の方法だと思う。
幸いなことに精密検査でもこの異常は見つけられなかった。
黙っていればきっと誰も気づかない。
しかし、放って置けるならこんなに悩んだりはしない。
だって、こうして今も真琴の世話を黙ってしてくれている堀田さんから聞こえてくるから。
((中野先生が好き。……でもあの人には妻子がある。どうしたらいいの? 伝えたい……けど、伝えられない。息苦しいよ……))
という心にある想い……「心のコエ」が真琴には聞こえていた。
真琴はついに覚悟を決めて、堀田さんに聞いた。
この能力が本物なのかを確認するために。
「……ねえ、堀田さん。堀田さんって、今好きな人いるの?」
「え、なぁに? もしかして、恋愛の相談?」
笑顔で真琴の顔をまじまじと見る堀田さん。
彼女の印象はここ数日で、初めて出会った時よりずいぶん変わっていた。
最初はおどおどして頼りないと思っていたけど、日が経つに連れて気配り上手で優しいお姉さんのような存在になっていた。
彼女が最初どうしてあんなに真琴に対しておどおどしていたのか聞いたら、オバケの類が苦手で突然目覚めた真琴を幽霊なんじゃないかと思っていたらしい。
その話を聞いて二人して笑ってから急に、彼女には親近感が沸いてきたのだった。
その彼女に嘘をついてまでカマをかけるのは真琴を後ろめたい気持ちでいっぱいにさせた。
「……私、中野先生のこと……好きになっちゃったかもしれない……」
気持ちが暗くなったせいで、ただの演技のつもりがずいぶんリアリティーのあるものになってしまった。
「え!? だ、だだだだめよ! あの人には奥さんと子供がいるのよ? それに、真琴ちゃんまだ十六歳でしょ? あんなおじさん好きになっちゃもったいないわよ」
その反応だけでも十分だった。
でも、真琴はあえて止めを刺した。
「……堀田さん、もしかして中野先生のこと好きなの?」
「――――!?」
顔を耳まで真っ赤にして両手をぶんぶんと車のワイパーのように振って彼女は声を呑んだ。
息苦しくなったのか、彼女は二度三度深呼吸をしてから言った。
「や、やめてよね。そ……そんなわけないじゃない……」
彼女の取った行動は真実を如実に物語っていた。
最初の実験は成功してしまった。
堀田さんは嘘をつくのが下手で、感情を隠すことができないタイプの人だからわかりやすかった。
話を切り上げて残りの仕事を終え、真琴の部屋から出る時までずっと顔は赤いままだった。
成功例が一つしかない今の時点で、過信はできないのかもしれない。
それでもなぜだか確信してしまった。
「心のコエ」が聞こえるのだと。
意識してからのその能力の進化には目を見張るものがあった。
真琴は部屋からの外出にもかなりの制限が設けられていた。
手続きが面倒だったのと、特に外出する理由がなかったので必然的に部屋で過ごすことが多かった。
他人と接する機会はほとんどなかった。せいぜい中野先生と堀田さんくらい。
トイレに行く時にすれ違い様挨拶くらいは何人かとしたけれど、隣にどんな人が入院しているのかさえ未だに知らなかった。
だから、堀田さん以外の心のコエを聞くことはできなかった。
最初、この能力に気づいた時は近くにいる人の心のコエしか聞こえなかった。
広くてもこの部屋くらいの範囲にいなければ聞こえないはずだった。
それが、能力を意識した次の日には急激に範囲は広がっていた。
隣に入院している人は心で叫んでいた。
((これであの人とは別れられる! ……でも、それでもやっぱり私にはあの人しかいない……!?))
堀田さんに隣の人が入院した理由を聞いてもさすがに答えてはくれなかったので、推理したら見事に当たってしまった。
隣の人はドメスティックバイオレンス。つまり夫からの暴力で入院していた。
だからあんなに絶望と希望の狭間で苦しくもがいていたのだ。
それで心のコエの意味も納得がいった。
やっぱり、真琴には心のコエが聞こえる。
もはや疑う余地は一つもなかった。
検査入院の最終日には、隣どころか病院内にある全ての心のコエが聞こえるようになっていた。
そして、能力が強くなるのと比例するように制御もできるようになった。
意識一つで、ある程度は心のコエを遮断することができた。
この能力と付き合い始めてまだ一週間くらいしか経っていなかった。
けれど、どういう能力なのかわかってきた。
真琴が得た能力は人の心を全て聞けるのではなく、強い想い「心の悲鳴」のようなコエだけを聞くことができるのだと。
思い当たるふしは最初からあった。
堀田さんの心のコエは毎日のように聞くことができたのに、同じように真琴と接する機会の多かった中野先生の心のコエは聞こえなかったから。
能力が強まった今でも中野先生の心のコエは聞こえない。
また、強すぎる想いのコエは遮断しようと思ってもできなかった。
助かったのは、遮断できないほどの強い思いのコエは非常に少ないということ。
病院という特殊な状況下に置かれた人たちが集まり、平凡な生活を送っている人より強い想いを抱えている人が多いと思われるこの場所でさえ、遮断できない心のコエは一つか二つくらいだった。
そうでなければ、たぶんノイローゼにでもなっていたかもしれない。
しかし、結局能力のことは誰にも話せないまま精密検査の最終日を迎えてしまった。
コンコンと小さく真琴の病室のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
真琴が返事をすると、中野先生が堀田さんを従えて入ってきた。
中野先生はいつもの笑顔を向けて言った。
「今日で精密検査も終わりだからね。これで異常が見つからなければ明日には退院できるよ」
「本当ですか?」
やっと聞くことのできた退院という言葉。
うれしいニュースに自然と顔が綻ぶ。
「ああ。ま、ぬか喜びにならないことを祈っているよ。僕としては、あまり心配はしていないんだけどね。……それじゃ、始めようか」
中野先生が真剣な顔つきになって最後の検査が始まった。
昨日まで毎日やっていた検査を再び繰り返し、一番最後にやった脳波の検査が終わった時には午後の二時になっていた。
検査結果は夜までには教えてくれるらしい
今日くらいは何か、脳波辺りに異常でも見つかるのではないかと思った。
……いや、心配していたのか。それとも、期待していたのか。
たぶんその両方だろう。
なのに冷静でいられたのは、自分でも何か気づいていたのだろう。
どんな検査結果が待ち受けているのか。
その夜、検査結果より先に意外なことが待っていた。
夕食を食べておとなしく待っていた真琴の所に、両親が来た。
ちょっと考えれば、それはごく当たり前のこと。
結果次第では明日にも退院するのだから。
神妙な面持ちで待つ真琴たちの病室に、中野先生が来たのはそのすぐ後だった。
「結果から言いましょう。大崎真琴さんは正常です。二週間にも渡る精密検査をしてきたわけですが、何一つ異常なことは見受けられませんでした。後遺症のようなものもありません。はっきり言って僕なんかよりよっぽど健康なくらいですよ」
中野先生のお墨付きをもらって真琴の両親は泣きながら喜んでいた。
真琴はまるで蚊帳の外にでもいるかのようにぼそりとつぶやいた。
「……本当に……?」
その言葉を聞き逃さなかったのか、中野先生は真琴にだけ聞こえるようにそっと答えた。
「本当だよ。……僕だって正直にわかには信じ難いさ。無傷だなんて……。でも事実がそれを告げている以上、僕にはそれ以外の判断はできないよ」
「…………」
言うなら、今しかない。
しかし、何をどう言えばいいのかわからない。
いっそのこと中野先生がこの能力を持っていて、真琴の心のコエを聞いてくれればいいのにとさえ思った。
「まったく、どんな奇跡が起こったら昏睡状態に陥るような落雷に遭ったのに健康でいられるんだか……。つくづく人間の体は一生勉強だと思い知らされるよ」
やれやれとため息をつき、中野先生は両親に退院の手続きに関する話を始めた。
真琴はそれを上の空で聞いていた。
(……言えなかった……)
きっと能力のことを告白できなかった理由の一つは中野先生の性格にあると思う。
現実主義的で人知を超えた現象に否定的な中野先生の性格は、この能力を明かすには不適切だった。
言っても、たぶん信じてもらえない。
下手なことをすれば、この能力を否定するための検査をするかもしれないとさえ思ってしまった。
中野先生のことは嫌いじゃなかったし、頼りにもしていた。
でも、全てを打ち明けられるほど信じてはいなかったのだと思う。
それに、能力のことを確信しているにもかかわらず、心のどこかでまだ信じたくなかったのかもしれない。
他人に言えば、逃げ場がなくなるような気がしていた。
自分の心にだけとどめておけば気のせいにもできると。
ふと、病室の中を見渡すと両親も中野先生もいなくなっていた。
何か説明を受けていた両親が、中野先生にお礼を言っていたのは覚えている。
確かその後真琴に「明日の午前中、迎えに来るから」みたいなことを言っていたような……。
正確には覚えていないが、今日は帰ったのだろう。
もう夏休みも残り数日になっていた。
ふーっと息を一つ吐いて、いつもより早く横になった。
明けて翌日、両親は午前十時過ぎに迎えに来た。
どうやら記憶は間違っていなかったみたい。
一番お世話になった中野先生と堀田さんに見送られて、真琴を乗せた車は走り出した。
二つの人影が小さくなってゆく。
見えなくなる直前に、ほんのちょっとだけ手を振ってお別れをした。
それから二十分もしない内に、車の窓から見える景色が見覚えのあるものになっていた。
二週間ぶりの我が家は、とても懐かしく感じられた。
玄関の扉を開けると、いつもの風景がまるで何事もなかったかのように迎えてくれた。
これでよかったのだと思う。
真琴は能力のことを一切胸の内にしまい、日常へと戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます