心のコエ

1

 前も後ろも、右も左も、上も下もわからない暗闇の世界に真琴はいた。

 立っているのか、寝ているのか、それとも浮いているのか。

 どの感覚も正しいと思えるような不思議な世界だった。

 とりあえず、歩いてみた。

 どこに向かっているのか自分でもわからない。

 いや、そもそもどこかへ向かって進んでいるのだろうか?

 足を動かしているのに、本当に歩いているのかさえ疑わしく思えてきた。

 それでも歩き続けたのは、ここで足を止めてしまったらもう動かせなくなるのではないかという恐怖感からだった。

 挫けそうな心を意地だけで支えていた。

 見ることのできない自分のつま先辺りだけを見ていた真琴は、ふと誰かの気配を感じて顔を上げた。

 目の前に、真琴と同じ学校の制服を着た長い黒髪の少女がうずくまっていた。

 背を向けて、何かを拒絶するかのように。

 自分の姿さえ確認できないほどの闇の中で、なぜだかはっきりと見えた。

 近づこうと思って歩き出したが、一向に進まない。

 どんなに足を動かしても。

 彼女に自分のことを気づいてもらいたかった真琴は、力の限り叫んだ。

 しかし、彼女は振り向くそぶりも見せてはくれない。

 こんなに近くにいるのに手も声も想いも届かない。

 方々手を尽くして、さすがに疲れた真琴はその場にしゃがんだ。

 そして、自分のことが彼女に伝えられないのなら、せめて彼女の気持ちを知ろうと思った。

 真琴は彼女に背を向け、同じようにうずくまった。

 それは、とても不可解な感情だった。

 一人ぼっちだった時も、彼女を見つけたのに想いが届かなかった時も不安が心を支配していたのに……。

 背中越しに感じる彼女の気配は真琴の心に安心を与えてくれた。

 不意に、背中が重くなった。

 彼女の背中が自分に寄りかかってきたと思い、すぐに振り返った。

 彼女は真っ直ぐと立ち、凛と見つめていた。

 そして、彼女は口を開いた。

「――――――――――――」

「え……?」

 彼女は何か言っていた。

 でも、真琴には聞こえなかった。

「何……?」

 聞き返しても彼女は答えず、満足げなほほ笑みを残して消えて行く。

「ちょ……待って! 待ってよ!!」

 消えかかっていた彼女の体の手を伸ばした。

 触れた感覚が指先に伝わった瞬間、光が広がった。


 無機質な天井と、真っ白な蛍光灯の明かりが真琴を出迎えた。

「…………」

 真琴は白いベッドの上で寝ていた。

 ゆっくりと体を起こして辺りを見回す。

 真琴の寝ていた部屋が病院の個室だとわかるのに、さほど時間はかからなかった。

 病室の窓から外を見ると、もう雨は止んでいた。

 夕日に照らされて、空は赤く輝いていた。

 所々に浮かぶ白い雲がいいアクセントになっている。

 真琴は絵画のようにあまりにきれいな夕焼けに見とれていた。

 だから、病室のドアをノックする音にも、人が入ってきた気配にも気づかなかった。

「お……大崎、真琴さん?」

 急にかけられた声にびっくりして振り返ると、ドアに手をかけたまま看護師さんが目を白黒させていた。

 返答に困った真琴は、とりあえず挨拶をした。

「え……と。あの、おはようございます」

 真琴の声とドアを閉める音が重なった。

 廊下をバタバタと走る音が病室の中まで聞こえてくる。

「せ、先生~!」

 悲鳴のような叫び声と合わせて。

(病院の廊下って普通走っちゃいけないと思うんだけどな……)

 真琴は再びベッド仰向けになった。

 その体勢のまま、ベッドの横に備え付けられたサイドテーブルに目をやると、スマホを見つけた。

 指紋認証をしても画面に何も表示されない。

 病院内だからか、誰かが電源を切ったのだと思った。

 悪いと思いながらも電源ボタンを押したが、何の反応もしなかった。

(……電池、切れてるのかな……)

 スマホを棚に戻すとほぼ同時に、誰かがドアをノックした。

「あ、はい。どうぞ」

 言って真琴は体を起こす。

 今度は聞き逃さなかったから、しっかり返事ができた。

 ドアを開けて入ってきたのは眼鏡をかけた白衣の男性と、さっき入ってきた……いや、騒がしく出て行った看護師さんだった。

 医者と思しき白衣の男性は、すらりとした体型で年齢も三十代前半くらいに見えた。

 胸の所に付けたネームプレートには「中野良太」と書かれていた。

 清潔感の漂う顔立ちで、客観的には格好良いと思う。

 中野先生の後ろには、落ち着く様子を見せない先ほどの看護師がいた。

 不安げな表情を向ける彼女のネームプレートには「堀田百合香」と書かれていた。

「大崎さん」

「は、はい」

 二人をきょろきょろと見ていた真琴は、名前を呼ばれ慌てて中野先生の方に向いた。

「君、何か体に異常は感じないのかい?」

 中野先生は意を決したかのような真剣な眼差しで聞いてきた。

「ちょっとだるいですけど、それ以外は特に……」

 それが真琴の率直な答えだった。

「そ、そんな馬鹿な……!?」

 訝しげな顔をして、力を込めて中野先生はつぶやいた。

「あの、ところでここはどこであなたは何者ですか?」

 真琴はずっと疑問に思っていたことを聞いた。

「え? ああそうか、自己紹介がまだだったね。僕はこの病院の外科と脳神経外科を担当している中野です。よろしくね」

 中野先生から差し出された手を取り握手をした。

「こちらこそ、よろしくお願いします……」

 真琴が言うと、さわやかな笑顔のまま一歩後ろに引いた。

 そして、今度は看護師さんが真琴の前に立った。

「えと、大崎さんの担当をしてます看護師の堀田百合香です。よ、よろしくお願いします」

 堀田さんは目線が泳いでいてどこか怯えている風なのは気のせいだろうか。

 真琴は握手をしようと思って手を出そうとしたら、堀田さんは中野先生の後ろに隠れるように逃げてしまった。

 中野先生は再び真琴の前に来て、カルテのようなものを見ながら話そうとした。

 その時、真琴は一つ大事なことを思い出した。

「あの……私も自己紹介まだでしたよね」

 中野先生はカルテのようなものから目を離し、真琴を見ながら言った。

「その必要はないよ。君のことはご両親からよく聞いているし……。ここ数日のことはきっと僕たちの方がよくわかっていると思うから」

「ここ……数日……?」

 言われてみれば真琴は今日が何月何日なのかもわからなかった。

 この病室にはカレンダーはないし、スマホも電源が入らなければ確認できない。

 真琴はそこで一つおかしいなと思った。

 毎日スマホは充電している。

 今持っているスマホは入学した時に買ってもらったもので最新モデルだから、そんな簡単には電池だって切れないはず。

「せ、先生……今日って何月何日なんですか……?」

 真琴は不安げな顔で恐る恐る聞いた。

 それを見て、中野先生は眉間にしわを寄せて静かに、言い聞かせるように答えた。

「その前に、なぜ君がここに運ばれたのかを話そう……」

「は、はい……」

「君がどこまで覚えているかはわからないが、八月十日の夕方――あの酷い夕立のあった日に雷に打たれて、意識を失った状態で運ばれてきたんだ」

「――――!?」

 言葉が出なかった。

 でも、妙に納得はできた。

 真琴の脳裏にあの強烈な光が焼きついて、今でも覚えていたから。

「でも、不思議なことにこれといって外傷は見つからなかったんだ。ただ、脳波は異常な数値を示していて予断を許せる状況じゃなかった。それに……何より君が……」

 中野先生はため息を一つ吐いた。

「君がまる三日も昏睡状態だったからね」

「三日……? それじゃ今日は、もう八月十四日?」

「そう。……医者がこういうことを言うのは気が引けるんだけど、君が助かったのは正に奇跡と呼ぶ他ないと思う」

 真琴は驚いたりはしなかった。むしろ、冷静になっていた。

 自分の身に何が起こったのかよく理解できた。

 ……実感はわかないけれど。

 真琴にしてみれば、ただ起きたら知らないベッドで寝ていた。くらいの感覚しかない。

 だから生死の境を彷徨って、奇跡的に助かったみたいな言い方をされてもいまいちぴんとこなかった。

 唯一、いつもより体が気だるいことから、長く寝ていたということは実感できた。

「あの、これから私はどうなるんですか? ケガはしていないみたいだし、昏睡状態から回復したってことは退院できるんですか?」

「詳しいことは明日、ご両親も交えて説明するけど……一、二週間は精密検査のために入院してもらうことになるよ」

「……はい」

「ま、何にしても目が覚めてよかったよ。後で夕食を持ってくるから、今日はしっかり食べてゆっくり休んだ方がいい。ご両親には僕の方から連絡しておくから。早く会いたいところだろうけど、少しだけ我慢してもらうからね」

 そう言い残して、中野先生と看護師の堀田さんは部屋から静かに出た。

 夕日はもう沈み、空は夜の闇に包まれていた。

 遠くに家の明かりが見えた。

 ここはあの深遠の闇とは違う。それだけが真琴の心を落ち着かせた。


 翌日、両親は泣きながら真琴を抱きしめた。

 その時になって、やっと自分が大変なことになっていたのだと思った。

 両親のいる前で簡単な検査をして、これからのことが説明された。

 まず、今の段階でこれといって異常が認められないこと。

 次に、昏睡状態に陥るほどのことがあったのに何も異常が認められないこと自体異常なのではないのかということ。

 そして、今日から二週間かけて精密検査をすること。

 その間、あまり脳に刺激を与えたくないからと、友達に会うことを禁じられてしまった。

 だから、真琴は両親に由紀子と美希への伝言を頼んだ。「退屈すぎて死にそうだ」と。

 会えない上にスマホまで使えないので、そんなことさえ伝えられなかった。

 そう、スマホは電池が切れていたわけではなかった。

 落雷のショックで壊れていたのだ。

 両親は真琴の伝言を快く引き受けて満足そうに帰った。

 明日から本格的な検査が始まる。

 不安はなぜだかあまりなかった。

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