3
終業式の日、真琴が神田に振られたことはクラスどころか全校生徒に知れ渡っているのではないかと思った。
どこに行ってもその話題で持ちきりだった。
こうなると自分のしたことが悔やまれる。
自業自得と言われればそれまでだけど、予想もしていなかった結果になってしまったのだから仕方ない。
昨日、わざと目立つような行動を取ってギャラリーにことの顛末を見せたのは十分に効果があった。
噂話に結末が付け加えられて、一時的に盛り上がってはいるけど、一連の騒ぎはこれで収まると思う。
終わってしまった他人の恋物語は、酷く賞味期限が短いから。
少なくとも、夏休みの間にあれこれ憶測を呼ぶことはなくなったと思う。
きっと皆、二学期になったらすっかり忘れているのだろうな。
結果的にはこれでよかったはず。
想像していたものとは多少形は変わってしまったけれど。
ただ、その‘多少’変わってしまった部分がちょっと……いや、少し心に引っかかるだけ。
そう……元々は「神田が真琴を好き」という噂だったのに、「真琴が神田に振られた」という矛盾した結末になってしまった。
そのせいか、話の辻褄を合わせるかのように、いつの間にか最初の部分が逆になっていた。
つまり、「あの噂は誰かの思い違いで、実は真琴が神田を好きだった」と。
正直それを知ったときはムカついたけど、反論すればせっかく作った沈静化への道を自ら閉ざすことになる。
それに、これ以上この噂にはもう関わりたくなかった。
あいつのことはもう二度と考えたくない。
朝のホームルームまでの時間がいやに長く感じられた。
いつもなら、由紀子や美希と話していたから物足りないほど短い時間だったのに。
気づかっているのか、驚いているのか、二人とも今日は真琴が教室に入ってから近づこうともしない。
でも、それはたぶん当然。
数日前、二人と話した時はあんな大胆な行動に出るなんて、素振りも見せなかったから。
一番驚いているのは由紀子だろうな。
何だってお互いのことは話してきたけど、昨日のことは一切言わなかった。
そして、今日もいつものように二人で登校してきたのだ。
どんなことでもあまり動じることのない由紀子の困惑した表情は、何だか新鮮だった。
ちなみに、美希とはまだ挨拶すらしていない。
いずれ二人には事実をありのまま話すつもりだけど、さすがにこの教室内で話せる内容ではない。
だから、二人が興味本位だけで聞きに来たりしなかったのは助かった。
つき合いの長い由紀子はともかく、美希は聞きたがるだろうなと思ってある程度覚悟していたのだけれど。
数日前、真琴に直接噂話を持ちかけてきたのも美希だったし。
しかし、結局先生が教室に入るまで誰も話しかけては来なかった。
今日は終業式。
体育館での全校集会と、各教室で成績表を受け取って終わりだ。
だからといって、真琴はすぐに帰れるわけではない。
この後、お昼を食べてから部活がある。
テニス部に所属していた真琴は、午後一時までにテニスコートに集合することになっていた。
お昼を食べながら昨日のことを二人に話そうと思っていたけど、誘おうとした時にはもう、部活に入っていなかった由紀子は帰ってしまっていた。
とりあえず、美希にだけでも話しておこうと思った。
その気にさえなれば、由紀子とはいつでも話せるから。
同じテニス部員の美希が、まさに持ってきたお弁当を広げようとしていたのでさっそく誘い出した。
今日は昨日とは違う。ギャラリーを連れてくるわけにはいかなかったので、なるべく目立たないように静かに教室を後にした。
何も言わなかったのに、美希もそれを察してくれたのか無言でついてきてくれた。
校舎の中で二人っきりになれるところを探して彷徨っていると、ある変化に気づいた。
今朝あちこちで囁かれていた真琴の噂がぱったりと聞こえなくなっていた。
代わりに、明日から始まる夏休みの予定なんかで盛り上がっているみたいだった。
たった半日で賞味期限は切れてしまったようだ。
野次馬なんてそんなものかと思わず苦笑してしまった。
人気のないところに向かっていた真琴は、自然と校舎裏の木陰にたどり着いた。
一応屋上も候補には上げていたけど、それは最後の手段だった。
この季節、よっぽどのことがなければ屋上に人が寄りつくことはない。
最低限の条件はそろっている。でも、経験者としてはあの場所で長話はしたくなかった。
真琴は校舎を背もたれに、比較的汚れていないコンクリートの部分に腰を下ろすと、それにならって美希も隣に座った。
お弁当を広げながら、意を決して真琴は話しかけた。
「聞きたいことがあったら、聞いてもいいわよ。友達にくらいは真実を知っておいてもらいたいから」
「……何があったの?」
開けたままのお弁当箱を見つめたまま、美希は小さくつぶやいた。
「昨日の放課後、部活が始まる前に屋上に呼び出して直接神田に聞いたのよ。『私のこと好きなの?』って。そしたら、急に神田がキレてばっさり振られちゃったってわけ」
「どうして……?」
その質問にはすぐに答えられなかった。
いろいろな意味が込められていることは、鈍いと評される真琴にもわかった。
頭の中で整理しながら、一つ一つ答えた。
「……美希は、『噂なんて皆すぐ忘れる』みたいなことを言ってたけど、夏休みまであの噂を引っ張りたくなかったのよ。だから早めに決着をつけようと思って神田を呼び出したの」
そこまでスラスラと答えていたが、急に考えがまとまらなくなってきた。
それはたぶんその先の行動は相手の起こした行動で、真琴には想像することしかできなかったから。
だから、事実だけを伝えた。
「……神田は、私のこと嫌いだったみたい。思いっきりばっさり振られちゃった」
「私が聞きたいのはそんなことじゃないわよ」
「え……」
美希の言った言葉は本当に意外だった。
これ以上何か話すべきことがあるのだろうかと思案していると、美希が答えをくれた。
「どうして、何も相談してくれなかったの?」
すがるような瞳で見つめる美希。
「……ごめん、考えてもみなかった。私は、私と神田の間で決着がつけばいいとだけ思っていたのよ」
不意に、数日前美希が噂話のことを真琴に話したことが思い出された。
「もしかして、相談に乗るつもりで私に噂話のことをふったの?」
「そ、そんなわけないじゃない!」
顔を赤くして背けた。
美希は手つかずだったお弁当をばくばく食べ始めた。
それで、話は終わったものだと思った真琴も半分くらいまで減ったご飯を口に運んだ。
「ねぇ、マコちゃん。神田君のこと好きだったの?」
だから、不意打ちをかけるようにさらに質問が飛んできた時は、驚いて危うくご飯を喉に詰まらせるところだった。
「ゲホッ、ゴホッ……」
「ちょ、大丈夫?」
美希は真琴の背中をさすりながら心配そうに聞いた。
ペットボトルのスポーツドリンクを飲み、目尻にこぼれた涙を拭いてやっと真琴は落ち着いた。
「変なこと聞かないでよ。美希と由紀子にはこの前言ったじゃない。特別どうとも思ってないって。ただ、今はちょっと違うけど……」
真琴が今、神田をどう思っているかを話すべきか、聞かれるまでずっと迷っていた。
だから、わざと含みを持たせるような言い方をした。
聞かれたら答えようと思っていた。
「……今は違うってどういうこと? もしかして、好きになっちゃったとか?」
案の定、美希は聞いてきた。
「逆よ、誰よりも特別嫌いになったの」
「……どうして?」
何でも答えてあげるつもりだった。でも、言葉が出てこなかった。
嫌いになった理由は、間違いなく昨日あった出来事なのだ。
それを教えるということは、昨日のことを詳細にわたって思い出さなければならない。
嫌いになった奴の放ったムカつく言葉を思い出すことは、まだ今の真琴にはできなかった。
「ごめん、まだ私の中で上手く整理ついてないみたい。事実は教えられるけど、ことの顛末を詳しく思い出したくないのよ」
「……そう……」
真琴の口調から何かを察してくれたのか、美希はぼそりとつぶやいたきり何も言わずお弁当を食べた。
その日の部活はいつもより体が動いた。
部活では美希と一緒にいることが多い真琴だったが、帰る時だけはいつも別々だった。
自転車通学の真琴と、自家用車で送迎されている美希とでは仕方のないことだけど。
校門から車の停めてある所(さすがに職員用や来客用の駐車場は使わない)まで美希と一緒に歩き、別れた。
その間いつもなら雑談でもしているところなのに今日はお互い無言だった。
真琴は話しかけたかったが、美希があまりに真剣な顔で何か考え事をしていたから邪魔してはいけないと思い、諦めた。
別れ際「またね」を言い合ったけど、美希はどこか上の空だったような気がした。
真琴は帰る途中、信号待ちをしている時に由紀子にラインを送った。
ほんの数行「話があるから夕食の後行くね」とだけ。
美希に話した以上、今日の内に由紀子にも話しておきたかったから。
自分の部屋でスマホを見ると、いつの間にか返信されていた。
内容を確認すると、たった一言「いつでもいいわよ」と書かれていた。
そうは言ってもあまり遅くなるのも悪いと思い、夕食の後急いで由紀子の家に向かった。
お隣さんだから数歩で着いてしまうのだけれど。
インターホンを押すと由紀子が出迎えてくれた。
誘われるままに、由紀子の部屋に上がる。
「話って今朝のことよね」
「まあね」
真琴は、美希に話したことをほとんどそのまま繰り返した。
すでに美希に話してあることと、由紀子が何も言わずさっさと帰ってしまったことへの文句を付け加えて。
全て話し終えるまで由紀子は黙って聞いていた。
そして、話が終わるや否やため息一つ。
「コーヒー淹れてくるわね」
そう言って由紀子は部屋を出た。
一人になって気が抜けた真琴は、由紀子のベッドへ仰向けに倒れた。
天井を見ながらベッドに身を任せると思考が徐々に鈍ってくる。
昨日の夜はあまり寝られなかった。
起きていれば嫌な出来事を思い出してしまうし、寝れば寝たであの時の光景を夢に見てしまったから。
今日二人に話せたことでやっと心の落ち着きを取り戻したような気がする。
「……真琴、起きて。ねぇ、真琴ってば」
光が朧気に揺れている。
「う……ん……」
……いや、揺れているのは光じゃなくて自分の体の方だ。
どうやら真琴は由紀子のベッドで寝てしまったみたい。
由紀子は優しく声をかけながら揺り起こそうとしていたけど、逆効果だと思う。
囁くような独特の声は、余計に優しい眠気を催す。
このまま眠ってしまいたい。けれどいくら親友の前だからってそれは失礼だ。
話すだけ話して寝てしまうなんて。
真琴は必死に睡魔と戦いながら無理矢理体を起こした。
ベッドに座ったまま伸びをすると、視界が開けるのと共に現実的な感覚が戻ってきた。
部屋の中に充満するコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。
見ると由紀子の手にコーヒーカップが一つ。そして、小さいテーブルの上にももう一つ。
真琴はテーブルの上にあったコーヒーカップを取りながら、
「コーヒーありがと。もらうね」
そう言って眠気覚ましとばかりに、ブラックのまま飲んだ。
「……これ、キリマンジャロ?」
「当たり」
小さくほほ笑んで由紀子は答えた。
由紀子はちょっとしたコーヒー通で……いや、コーヒーマニアって呼んだ方が正しいのかもしれない。
とにかく、いろいろな種類のコーヒー豆を買ってきては飲み比べている。
つき合わされる真琴も多少はわかるようになってしまった。
真琴は特に好みはないけど、由紀子のお気に入りは本物のブルーマウンテン。
高くてあまり買えないらしいけど。
由紀子はテーブルにコーヒーカップを置いて、窓の外を見ていた。
「そういう気分じゃないかなって思ったのよ」
「え……」
確かに、キリマンジャロの強い酸味と深いコクは、神田に振られた時のたとえようのない気持ちにどこか似ていた。
真琴はコーヒーカップに半分くらい残ってぬるくなったキリマンジャロを一気に飲み干した。
空になったコーヒーカップを見つめていた真琴は、思っていたことを気づかぬまま口にしていた。
「……何も聞かないのね」
その言葉を聞いてから「ハッ」としたのは、あろうことか言った本人である真琴の方だった。
由紀子は意にも介さずさらりと答えた。
「私にとって大事なのは真琴の気持ちなの。それ以外のことはあまり関係ないわ。だから聞く必要もないのよ」
真琴は思わず由紀子を抱きしめてしまった。
理由はいくつもある。
でも、一番の理由は顔を見られたくなかったからだ。
自分でもよくわからない涙がとめどなくこぼれてどうしようもなかった。
由紀子にはもう何度も弱みを見せてきたけど、この泣き顔だけは見せたくなかった。
どれだけの時間抱きしめていたかはわからない。
ただ、涙が枯れるまでずっと由紀子の体は離せなかった。
二人の間に静寂が訪れていた。
あの時炎天下で感じた冷たい静寂とは違う。
クーラーの効いたこの部屋でも、体の芯が温かくなるような心地よい静寂だった。
「……ごめん」
そう言って真琴は、やっとの思いで由紀子の体を離した。
時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。
「うわっ、もう十一時? あ、私明日部活あるから帰るわね」
慌てながら真琴は言った。
すると由紀子は、優しく真琴の手を取って玄関まで送ってくれた。
真琴が玄関の扉を手にかけたところで、由紀子は言った。
「泊まっていってもいいのよ」
それはうれしいお誘いだったけど、さすがに断った。
「ありがとう。でも、やめておくわ。そこまでは頼れないよ。愚痴聞いてもらって言うのもなんだけど。やっぱりこれは私の問題だから、自分の力で乗り越えたいのよ」
「そう……そうね……」
やわらかなほほ笑みを浮かべながらつぶやいた由紀子と別れて、真琴は家に帰った。
恥ずかしくなるほど泣いてしまった割に、なんだか気分はすっきりしていた。
明日から夏休み。
インターハイには出られなかったけれど、部活は毎日のようにある。
好きなテニスを思う存分できることに少しだけ、ほんの少しだけわくわくしていた。
夢中になれるものが一つでもあってつくづくよかったと思った。
それから真琴は何かを振り払うかのように部活に没頭していった。
気づけばもう夏休みも半ば。
八月十日。
今日はテニス部前半スケジュールの最終日。
明日から一週間部活もお休みになる。
だから予定では午後六時まで部活のはずだったのだけれど……。
急に暗くなり始めた空を見上げて、先輩が三時で終わらせてしまった。
すぐに帰る気になれなかった真琴は、美希とたわいないおしゃべりがしたかった。
しかし美希は、明日からの海外旅行の準備で忙しいと言って早々と帰った。
一人取り残されたような形になってしまった真琴は、特にこれといって用事もなかったので図書館に向かった。
夏休みの課題の一つ、読書感想文がまるっきり手つかずだったから。
この学校は校舎の中に図書室はない。
学校の敷地内に、校舎以外にいくつも存在する別館の一つ。それが図書館だった。
校舎を望む中央の噴水広場を右手に進んだ所に真新しい図書館がある。
何でも、去年改修工事されて公立図書館以上の蔵書になったらしい。
中に入ると、空調のよく効いたさわやかな空気に包まれた。
外観は体育館よりも大きいくらいなのに、中に入るとあまり広さを感じられない。
入り口の辺り、入って左手側に貸し出しや返却を受け付けるカウンターがある。
その正面、つまり入って右手側に本を検索できるパソコンが何台か置いてある。
ちょうど一台空いていたので、真琴は推薦図書の中からすでに何冊かピックアップしていた本を検索し、納められていると記された棚へ行った。
探していた本は全てあったが、さすがに全部借りるわけにもいかないので、少し読んでみて気に入った二冊くらいを借りようと思った。
閲覧室は図書館の一番奥にある。
その扉を開けた時、真琴の心と体は硬直した。
両手で抱えるように持っていた本を落としかけそうになりつつも、何とかバランスを立て直して閲覧室から出た。
早足で持っていた本を棚に戻しながら、心を落ち着かせて考える。
真琴が入った時、閲覧室には十人はいたと思う。
そんなに目立っていたわけじゃない。
部屋の片隅で本を読んでいるだけだった。その他の人たちと同じように。なのに、わかってしまった。
閲覧室の扉を開けた時、本から顔を上げてこっちを見たわけでもないのに。
真琴の最も嫌いなあいつが、閲覧室の片隅にいたのだ。
たぶんあいつは気づいていない。
焦って閲覧室から出る時に、多少扉を乱雑に閉めてしまったけれど、その寸前にチラリと見たあいつの視線は本に集中しているみたいだったから。
真琴の姿は確認されていないはず。
でも、このまま図書館にいたら必ず鉢合わせしてしまう。
そんな気がした真琴は一目散に図書館から逃げ出した。
噴水広場から校門へ続く並木道を一気に駆け抜けた。
校門の側にある駐輪場に着いた頃には、せっかく図書館で引いた汗がまた噴き出してきた。
息を整える間もなく、自転車に乗ってその勢いのまま強く漕ぎ出して校門から出た。
すると、図書館から出た辺りからポツポツと降り始めていた雨が強くなり、帰り道の真ん中辺りに差しかかった時には、文字通りバケツを引っ繰り返したような雨になっていた。
雨宿りできるような場所が家路にはあまりなかった。
一応それでもコンビニくらいはあるけど、今さら雨宿りなんかする必要ないくらいびしょ濡れだったので、無視して家路を急いだ。
帰ってシャワーでも浴びればいいと思った矢先、今度は辺りが一瞬光った。
そして、その光に伴って「ドーン!」とまるで花火のようにおなかに響く音が鳴った。
自転車を止めて空を見上げると、まだ四時半くらいだったのに日が沈んでしまったのかと錯覚するくらい暗かった。
それは日の光さえ遮るほど空を厚く覆っていた黒い雨雲のせい。
よく見るとその雲の中で、調子の悪い電灯のような小さな光がチカチカと走っていた。
家まであと少しだったので、急いで帰ろうと思いさらに強く自転車を漕ぎ始めた。
その刹那、強烈な光と共に暗闇の世界へ落ちていった。
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