冬(4) マウスの首

 狂人となった教授は肘の関節目掛けて、雷のように斧を振り下ろした。

 薪を砕く音と共に押しつぶされる衝撃と、血液が沸騰する程の激痛。

 自分の喉を潰してしまいそうなほど絶叫する。


 小さなギロチンを思わせる斧は、肘に深く食い込む。

 私の視界が閃光を浴びたように、断続的に白いフラッシュバックを繰り返した。


 教授が斧を持ち上げると骨を強くこするような痛みが、腕の苦痛を倍増させる。


 鬼畜の所業をやってのける教授は、息を荒くして再び斧を振り下ろした。


「一回で切り落とせないのが良いんだよ! 何度も、何度も何度も何度も! 痛みの素晴らしさが味わえるだろ?」


 大きく息を吸い込むと吐き出すことができず、ストローでグラスの底を吸い尽くすような声を発し、目が霞、頭が吹き飛ばされたように真っ白になる。

 心臓の鼓動が今までにないくらい激しく鼓動し、心筋が肥大し過ぎて、爆発するのではないかと思えるほど苦しい。


 教授は一呼吸置いてから語る。


「マリさん。勘違いしてほしくないのだが、私は狂人でもなれけば鬼畜でもないよ。残虐性は人間の本質だ。何故なら無垢に生を創り、気ままに死を与えて塵に変える宇宙が残酷だからだ。その残酷な宇宙に作られた命である人間が残虐なのは、しごく当然のことだ。親が親なら子も子だよ」


 苦痛が生きる意味を阻害し始めると、誰もが思いつく考えに陥る。

 それは酷く単純で皆、納得できるシンプルな解だ。


「こ、殺……お願い……殺して……」


 教授は身をかがめ虫の息である私を、観察するように深々と見つめる。


「おぉ! マリさん。ついに自らの死を望む境地に達したか? そうだよ自殺は自分で死を決められるのだよ。唐突に他者に命を奪われることもないゆえ、生の理不尽さは無い。そもそも己が望まなくても人は産み落とされ生に翻弄される。どこに自由な意思がある? 自死だけは自らの意思で命の価値が付けられる。自ら死のあり方を演出できる自殺は、芸術アートだよ!」


 教授は私の足元へ歩みを進めると、なんのためいらもなく私の膝へ狂気の斧を振り下ろす。

 膝から吹き出た血液を浴びて、教授の顔は赤く汚れ白衣は汚く滲む。

 私がどんなに叫んでも、叫び声は宇宙のように無限に広がり、反復も他人の返事も帰ってこない。


 それをいいことに教授は無邪気に弁を立てる。


「まるで音楽だ。楽器一つ一つが奏でる単調な音に強弱を付けて それが複数合わされば壮大なオーケストラに変わる。君の恐怖の叫びは重ね合わせた楽器だ。痛みに耐える歯ぎしりはヴァイオリン。全身の震えはチェロ。希望を無くし世界に慈悲が無いと知った絶望の心中はオルガン」


 教授は返り血を浴びた顔に手を当てて、メイクをするように片手で鮮血を伸ばし、顔面を塗りたぐる。

 赤鬼のように染まった顔に見開かれた目。

 もはや人間を通り越した狂気。


「安心したまえ。痛みなど脳が作った錯覚だ。脳から出るパルスが神経を通じて身体の欠損部分を知らせているに過ぎない。ただの振る舞いだ。神経を持たないリンゴが人にかじられたからって痛がるかい? それが物質世界の常識だ。神経は幻を感じさせる」


 泥と鉄が混じったような血の臭いが空間に漂う。

 返り血で教授の感情が高ぶったのか、悪魔のような男はアーティストを気取り、風車のように回りながら叫んだ。


「宇宙とは変化そのものだ! 我々、人の世は思考によって作られる! この世界は夢だ! 我々の神は夢を現実として楽しむ為に人間同士の理不尽な殺戮を所望している。苦痛と恐怖だけが現実なんだぁぁぁあああ!!」

 

 彼は渾身の一振りを私の首へと振りかざす。

 腕も足も切断しただけあって、首は鮮やかに切り落とされ地面に転がり落ちた。


 中世ヨーロッパでギロチンが開発された経緯は、それ以前の斧での斬首が切り落とすのに時間がかかり過ぎた為である。

 罪人が事切れるまでの間、その苦痛はどれほどのものだったか。

 一振りで首を切り落とすなど、神業に他ならない。


 教授の言う通りかもしれない。

 痛みはとうに麻痺して何も感じず、酸素も必要を感じなくなり呼吸は止まり始める。

 痛みの後におそわれた寒気もなくなり、遠退く意識がむしろ穏やかな気持ちに落ち着かせる。


 ワタシはただカジられるダケのリンゴ……。


 教授は地に転がった私の生首に近寄り、髪を乱暴に鷲掴みにすると拾い上げ、どこからともなく現れたテーブルへ首の部位を下にして置く。

 テーブルの上には私の生首と並び小さな水槽があり、中は緑色に汚されたような液体で満たされていた。


「そうだ。極めつけが【カブトムシの箱】という思考実験だ。複数の参加者が自分達の前に置かれたブラックボックスに、一斉に手を入れて中身を確認する。皆、箱の中にはカブトムシが入っていると聞かされ、見えないボックスの中で触れた物をそれぞれ解説する。しかしボックスの中にはカブトムシが入っているとは限らない。ある者はただのボールを昆虫の表面と言い、ある者は動き回る電動のオモチャを虫という」


 教授は赤黒く汚れた両手で私の頭部を挟むと、なんの抵抗もなく彼の手が私の頭へめり込んで行く。

 手を構成する微細な原子や分子が反発せず皮膚や骨を幽霊のようにくぐり抜けたのか、あるいわ死が間近に迫る私の存在が、この空間では気迫になり数珠繋ぎの原子が離れ離れとなって教授の手の侵入を許したのかもしれない。


 教授は私の頭の中を、かき回すようにまさぐりながら弁を振るう。


「要するに複数の参加者は人の外見。ブラックボックスのカブトムシが人の心や感覚だ。自身が心を痛め他人が慰めても、互いに痛みを理解し合ったとは言えない。双対だと思いこんでいるだけ」


 頭皮の裏側を引っかかれているようで悪寒が感じられた。

 彼は何かを見つけ両手でしっかり掴むと、それを大きなダイヤモンドでも扱うように持ち上げる。

 教授の手と共に頭蓋をすり抜けて持ち上げられたのは、無数のウジ虫を固めたような醜い脂肪の塊。

 私の脳漿のうしょうが剥き出しになった。


「所詮、他人の痛みは理解できないという比喩だよ。神は人間の苦しみなど知らぬ存ぜぬだ」


 教授は水槽へ優しくゆっくりと沈めて行くと、濁った水槽に血が煙のように漂う。

 水槽から見えた教授の顔は光が屈折して歪んでいた。 

 クラゲのように浮かんぶ私を見て、彼は何か言っている。


「君が一番、利口なマウスさんだったねぇ……」

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