夏(2) Mary's Room
雑居ビルの陰へ隠れるように建てられた、レンガ作りの四角い店。
まるで骨董品のようなバーだった。
看板は3つの裸電球が上から弱々しく照らし、
バーの名前は【
メアリーの部屋?
どこかで聞いたような名前……。
シュウジ君が店の扉を押すと外観とは違い、落ち着き払った大人の雰囲気を漂わせる内装が、視界に広がる。
雨傘の下に立ったような天井には豪華なシャンデリア。
配色は
ゴシック建築を真似たのか、柱は天使の彫刻と一体になり、まるで柱が天使へ変身しようと試みているように見えた。
振り返ると、くぐり抜けた
扉の片側には額縁に収まった絵画があり、西洋の女王がロッドを持って、玉座に腰をかけて微笑んでいた。
立地や外観では解らない格式高い店。
ここがグルメ雑誌に紹介されないなんて勿体ないなぁ。
隠れ家的な店の佇まいに私は未魅了される。
シュウジ君は店の雰囲気にすぐ様馴染み、カウンターに足を運ぶので、慌てて後を追った。
見回すと客は男女の比率が同じ割合でいるものの、
私と彼はカウンターの丸椅子へ浅く座る。
椅子へ腰をかけるなりシュウジ君は、カウンターのバーテンダーへオーダーを入れた。
「マスター。彼女に合うカクテルをお願いします。僕はキス・ミー・クイックで」
オールバックに顎髭を蓄えたバーテンダーは「かしこまりました」と静かに答え、まるで自分の世界へ入り込んだように作り始める。
彼のオーダーしたカクテルに少し胸が高鳴った。
キス・ミー・クイックって和訳すると「早くキスをして」ってことよね?
もしかして、彼からのサイン?
ウソ。私、どうしたらいいの?
こういう男女の機微は詳しくないから解らない。
こんなことなら、ショウジョウバエがX線照射で変異した時の染色体地図の作成方法を覚えるよりも、恋愛雑誌の方を読み漁っとけばよかった。
バーテンダーはカウンターの上にグラスを置き氷を入れると、ボトルが並ぶ棚から2つの瓶を取り出した。
片方は赤い液体。
もう一つは透明な液体。
1つのグラスに開けた2本の瓶をそれぞれの手で持ち、グラスへ同時に注ぐとグラスは色の濃い赤い液体で満たされる。
マドラーで混ぜるとグラスに当たる氷の音が、鈴のように綺麗な音色を放つ。
バーテンダーは最後にスライスしたレモンを飾り、作られたカクテルのグラスを滑らせるように差し出し一言。
「こにらブラッディ・マリーです」
「マリー?」
思わず聞き返した。
差し出された赤い液体がシャンデリアの光に当たり、ルビーのように輝いていた。
次にバーテンダーは銀のシェイカーを両手で振り、フタを開けて別のグラスへクリーム色の液体を注いだ後、シュウジ君にグラスを突き出す。
「キス・ミー・クイックです」
シュウジ君はグラスを持ったので、それに合せてこちらも両手でグラス持ち上げる。
彼は私へ言葉を捧げた。
「人が天から心を授かっているのは愛するためである」
「な〜にぃ? ソレ」
「17世紀のフランスの詩人、ボワローの言葉」
「本当によく名言が出てくるわね?」
微笑みが二人の間を取り持つ中で、私の持つ赤いグラスへ彼は自身が持つクリーム色のグラスを軽く当ててから、カクテルを口へ運んだ。
それを真似して私はルビーを溶かしたようなカクテルを口へ運ぶ。
赤い液体の正体はトマトジュース。
これはウォッカとトマトのカクテルだ。
レモンの風味が合わさることで野菜の青臭さがなく、すっきりした味わいが楽しめる。
酒の席で華を彩るように、シュウジ君の博識が披露された。
「ブラッディ・マリーのトマトで表現した赤色は、血液の色なんだよ」
「血液?」
「このカクテルの由来は16世紀、イングランドの女王メアリー1世にちなんで名付けられたんだ。キリスト教の分派、プロテスタントを300人も処刑したことで知られている」
そう聞くと口にしたカクテルの後味が悪く感じ、少し気分が悪くなった。
しかも自分と同じ名前に置き換わっているなんて憤慨。
「嫌な話。トマトが処刑された信徒達の流れた血ってことよね?」
「そうなるね。罪無き神の子の血を飲むことで、過去の凄惨な歴史を忘れず、その清らかな魂を生者の身に宿す。ある意味、味わい深い酒だよ」
シュウジ君は余談を交えるが、私にその話題は専売特許だった。
「それと、アメリカの都市伝説でも同じ名前がある。午前〇時に鏡の前に立つと……」
「血まみれの女の幽霊を見る。でしょ?」
「そうそう、マリはオカルトとかそういの好きだね」
「今、オタクだって思ったでしょ?」
「そんなことないよ」
二人で微笑ましい絵を
彼との素敵な時間。
この瞬間がいつまでも続けばいいのに。
恋する女子なら誰だって思うはず。
彼は店の入口を軽く指して話を付け足す。
「ここの店名もメアリー1世から名付けられてるらしいんだ」
振り向いて改めて壁にかけられた絵画を見た。
玉座に座り宝飾のなされたロッドを持って微笑む女王。
メアリー・ズ・ルーム。
処刑の話を聞いた後だと、ちょっとおどろおどろしく感じてしまう。
シュウジ君はカクテルを一口含んで喉へ流すと、ボトルの並ぶ棚を眺めながら、煙を燻らすかのように言葉を漏らす。
「血まみれのマリ……か」
「……今なんて?」
よく聞き取れなかったけど、何故か気味悪く聞こえた。
私へ視線を向けた彼の顔が絵の具をハケで混ぜたように歪む。
あれ? 私、かなり酔ってるのかな?
シュウジ君の顔がよく見えない。
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