【夏】  「残忍な人間は皆、自分は正直者だという」 アメリカ人劇作家テネシー・ウィリアムズ

夏(1) 恋の魔法

 朝、目が覚める。

 カーテンの隙間から差し込む陽射しがまぶたを軽く焼くと、頭痛が身体の覚醒を阻害した。


 起きられないなぉ……でもシュウジ君とデートの約束もあるし、無理してでも起きないと。


 重しのように被さる重力に逆らいながら、半身を起こそうとした時だった。

 首と胴体が切り離されたように全身か言うことを聞かず、身体が石にでもなったのか、感覚が微塵もない。


 何? どうして動かないの?

 もしかして――――金縛り?

 落ち着かないと。

 一時的な物かもしれない。

 しばらくすれば身体が動くはずよ。


 そう踏んで平静を作るが、予想に反して問題は深刻だった。


 呼吸を整えれば……息が、息が出来ない……。


 口は糸で縫われたようにキツく結ばれ、鼻は元々なかったように存在を感じない。

 胸が圧迫されたように苦しい。

 肺の中へ砂を詰められたように、呼吸が止まる。

 酸素が足りなくなったせいか、手足が痺れる。


 私、金縛りのまま死ぬの?


 徐々に血の気が引いて気が遠のきそうになると、必死の思いで息を吸込もうと脳内に意識を強く込めた――――――――。


§§§


 梅雨の始まりと共に春が終わり、梅雨の終わりと共に夏を迎えた。

 シュウジ君と駅で待ち合わせして会場へ向かう。

 ここへたどり着くのが、どれだけ困難だったことか。

 今朝のことは言っても変な風に思われるだけだろうし、胸の内にとどめることにした。


 彼とデートで見に来たのは、シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』

 魔女や妖精のお祭り騒ぎ、ワルプルギス(夏至)の夜をテーマにした演劇。

 メンデルスゾーンの名曲に乗せてドタバタ劇が続く。


 ――――失敗した。

 シェイクスピアの作品だから奥深い楽しみ方が出来ると思っていたけど、登場人物が多くて誰が誰なのか解らないし、ストーリーもありがちで退屈してきた。


 誰が好きで誰が片思いか、思うように恋愛がいかないことを家族が不満を持ち王様へ、愛娘を死刑にしてほしいと願い出たり、死刑を逃れる為に駆け落ちしてカップルが逃げた先が妖精の国で、そのカップルを追って片思いの男女まで妖精の国へ行ってドタバタ劇に巻き込まれる。


 妖精の国では恋のキューピッド役、『パック』がカップル達の仲を取持とうと媚薬を使うけど、媚薬を使う相手を間違えて両想いのカップルの仲を裂いたり、片思いの女性とその相手を強引に結びつけたり、右往左往が忙しく続く。


 電波的で雑音のようなストーリー。

 ちょっと飽きてきた。

 たまらず小さなあくびをするが、隣にいるシュウジ君には直ぐバレた。


「少し内容が中だるみしてきたね」


「うぅん。ちょっと疲れてるだけかな」


「無理しなくていいよ」


「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに。私に合わない内容だったかな?」


「そう……でもそれは話の内容が退屈だからじゃないよ。劇の演出が悪いんだよ。本来、シェイクスピアは人間の本質と滑稽さを舞台で表した、奥深い芸術なんだ。この作品だって恋をしている誰もが願う、片思いが一晩だけでも両想いになったらいいという夢を描いた劇だよ」


 シュウジ君の声としゃべり方って不思議。

 催眠術にでもかられたように、聞き惚れて癒やされる。

 彼の声帯からアルファー波でも出てるのかな?

 彼は二の句を継いだ。


「恋は一夏のように儚いものだと表現しているんだ。人間が思い描くモノはそれだけ淡くうつろい、消えていく現実」


 シュウジ君の声音は変わることなく、一定のトーンを保って話を続ける。


「科学的な検知から見ると、恋は異性のフェロモンを感知して刺激された脳が、ドーパミンやフェネチルアミンなどの伝達物質を出すことで興奮作用をもたらす、錯覚の一種なんだ。科学ではその原理を理解出来ていない」


 錯覚だと彼は言った。

 氷のように冷たく刺す温度が感じられない言葉。

 私との恋愛も錯覚? 泡でできた夢なの?


 あぁ……また、眠くなってくる。

 意識が遠のきそう。

 シュウジ君は言葉で私に催眠術をかけて、肝心なことを誤魔化しているように思える。


「人間の生なんて水面に浮いた泡のようなものだよね。気づけば現れ漂い、いつかは弾けるまどろみの夢」


 手を離した風船が空へ逃げて行くように、私の意識は遠のいた――――。


 意思が舞い戻って来た時には、拍手喝采で大団円を迎えていた。

 劇は観劇した観客へ俳優達が感謝の意を示す為に深々と頭を下げ、劇の世界と観客の現実とを遮るように横断幕が降りた。 

 

 またやってしまった。

 うかつな行動もここまで来ると醜悪だ。


 晩春に聴いたコンサートとのことを思い出し、すぐさま脇目を降ると、そこには恋い焦がれる彼の顔があった。

 後少し身を乗出せば彼と唇が重なりそうなほど近い。

 イタズラ好きの妖精が私の背中を押してくれれば、この唇はすぐにでも重なるのに。


 見つめる彼の瞳の輝きは、星空のように奇麗だった。

 熱が上がり顔が火照っているのが自分でも解り恥ずかしくなるが、後数秒はこの宇宙の星々を集約したような瞳を、見つめていたかった。


 シュウジ君の呼ぶ声で宇宙への儚い旅から戻る。


「マリ、どうしたの? なんだか怯えた目をしているよ?」


「えっと……コンサートの時みたく、シュウジ君が席を離れたのかと……」


 彼は目線を外してハニカムように笑い答えを返した。


「大丈夫。僕はどこにも行かないよ。君の側にずっといるから」


§§§


 夜の歓楽街から外れて路地裏へ歩みを進めると、明かりは薄暗くなり、いささか異様な空気に包まれて不安になる。

 人の気配も無く電灯は切れかかり不気味だ。

 それこそホラーかサスペンスに出てくる怪物か殺人鬼が、どこからか現れても不自然ではない空気感だ。


 ここでシュウジ君と離れたら闇夜に飲まれて二度と、朝の光を見ることが叶わないのではないか?

 そんな不安にさいなまれる。


 肩身の狭い通路で先を進む彼の背中を必死で追いながら、どこへ行くのか尋ねようと思い立ったタイミングで、シュウジ君がお披露目するように紹介する。


「ここのバー。どのグルメ雑誌やネットにも載ってない穴場なんだよ」

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