【冬】  「我々は夢を見ているか、悪魔に騙されているのかもしれない」哲学者ルネ・デカルト

冬(1) ニンゲン

 アレ?

 私、今何してるの?

 暗い部屋、暗闇の先に壁があるのか、あるいわ闇が無限に広がっているのか解らないほど、見通せない。


 背中の感触からベッドの上に寝かせれているようだけど、私の部屋でもないし病院や誰かの家じゃない。

 それに酷く寒く小さく息を吐くだけで、白いモヤが天へ登って行く。

 とりあえず身体を起き上がらせないと……?


 無意識に手足を動かそうとする。

 でも普段通りの生体反応が何故か起きず、まるで身体がメデューサと目を合わせたように、硬直して動かない。


 穏やかだった心拍数が急激に上昇すると、夜が語りかけるように、暗闇から声が聞こえた。


「金縛りはね。レム睡眠により脳から筋肉へ伝達される信号パルスが、遮断されることによって起きる、脳機能と身体機能の齟齬そごだとされている」


 それは聞き馴染みのある声。

 ロウソク炎に浮かぶ像のように、人の影が現れた。


「教授?」


「マリさん。【メアリーの部屋】という思考実験は知ってるかな? 天才科学者メアリーは生まれてから白黒の部屋に住んでいて、その部屋から外へ出たことがない。だから色という物を肉眼で一度も見たことがないんだ。だがメアリーは世界の色について誰より詳しい。例えば赤色が何の色と合わせれば作られるかとか、何の成分で構成されているかとか。光を細分化した時、赤の波長は何ヘルツで発光しているとか」


 こんな状況でよく知る人物と顔を合わせるのは奇っ怪だが、それより不気味なのが教授の声。

 この暗い空間で反響することなく、とてもクリアに私の耳元へ届く。

 空気を震動させる音が壁に当たって跳ね返ることなく、ひたすら銃弾のように音の震動が飛んでいるという解釈になる。

 外で会話しているような状態だ。


 なのに夜道の雑談も人が住む家の物音も、スマートフォンの着信音も震動機能の微動音、

 鳥や虫の鳴き声、風が駆け抜け木の葉を揺らす音すら聞こえない。


 ありえない。

 何もない無の世界が広がっていることに等しい。

 ここはどこなの?


「教授。ここはどこですか?」


 教授はあえて聞かないフリをしたのか、話を進行させる。


「そんな彼女が外の世界へ出て初めて色という物を知ると、どんな反応をするだろうね? メアリーは本物の赤色を見て何を感じるだろうか? ちなみにメアリーはアルファベットで書くと、M.A.R.Y……【マリー】と読めるんだよ」


 私の震える声が恐怖を隠しきれないでいた。


「な、何かの悪い冗談ですか? 笑えませんよ」


「マリさん。少し世界について角度を変えて考察するのはどうかね? この宇宙は想像を絶する水槽の脳だ。我々はその脳内から外へ溢れた気泡」


「わ、訳が解りません。あなたは誰なの? 私の知ってる教授じゃない!」


 私の身体が金縛りで動けないことは知っているのに、私に対して何をするでもなく、哀れむようにただ見つめる。


 教授はゆっくりと両手を動かす。

 何をされるか解らない恐ろしさで、

呼吸を忘れる。

 すると教授は上げた両手で顔を覆い、顔面へ爪を立て引き裂いた。 

 指の隙間から流れ出る鮮血は、とても見ていられない。

 教授の顔は八つの爪痕にえぐられ無残な姿になる。 

 しかし金縛りで顔をそむけられず、まぶたを閉じてやり過ごそうとした。

 

 蛇が脱皮するように顔面の皮を剥ぐと、教授は別の顔を見せる。


 私の恋人、長身の彼。


「シュウジ君!?」


 彼氏の顔をした教授は、せせら笑いながら言った。


「シュウジ君、か……古代ギリシャの哲学者プラトンの提唱した【囚人の寓話】という話がある。洞窟で囚人として産まれた人間は鎖で繋がれ、世界のことを知らぬまま成長していく。しかし、薄暗い洞窟の壁に映った人影だけは見える。それが自身の影なのか他人の影なのか解らない。その影が囚人にとって唯一の世界との繋がりだ」


 段々と教授の声からシュウジ君の甘く眠気を誘う声に変わた。


「ある日、囚人は拘束を解かれ世界を目の当たりにする。すると囚人は世界が驚く程広く感動した。想像を越えた体験。彼は再び洞窟に戻りその感動を囚人仲間に伝える。太陽の光がいかに眩しいものか……しかし、囚人仲間は彼の話を信じない。自分達の洞窟以外、世界は存在しないと信じていたからだ。日の目を見た囚人はそれ以来、外の世界について語らないと誓う――――太陽の光に恋い焦がれながらね」


 私が困惑のまま黙りこくると、彼はデートを重ねた時のように解説してくれた。


「複雑な話に聞こえるが集団心理における比喩だ。周りの人間が『アイツは悪人だ』と聞いて同じように憎むようになる。しかし、なぜ悪人なのかは解らない。周囲が悪だと叫ぶから悪人だと信じ込む」


 シュウジ君の顔が私の耳元まで迫り、ささやいた。


「マリ、君は自分のおぞましい悪意を認められず、シュウジという影を生み出し、それを自身の恋人だと信じ込み幻影に逃げた。『私の残虐性は彼に植え付けられたもの、どれだけ酷い行いをしても彼のせいだ』てね」


「嘘! ありえない!!」


「ありえるよ。誰しも自分は優れた人間だと思いたい。この世界で唯一無二の存在だと信じたい。だから自分の愚行や都合の悪いことは他人のせいだと言い訳する」


「私は、そんな人間じゃない! 人を殺して楽しいはずがない!!」


「人間は何もない事に面白さを見出す才能がある。毎日のように無垢なマウスの首をはねていれば、それを楽しいと感じることさえある。何もおかしくない。ありのままになっただけ。ただ、どんな物でも繰り返すと人は飽きる。もっと面白い物を探すようになる。マウスの首から人の首に」


 不敵な笑みを見せた後、シュウジが顔を両手で覆い再び爪でえぐり皮を剥ぐと、次は精神科医の顔に変わる。

 三度爪で顔の皮を剥ぐと熱帯魚ショップの店員に。

 そして教授の顔に戻る。


 私には、ただただ問うことしか出来ない。


「あ、あなたは……誰?」


「さぁ、私は誰だろうね? 人によってはイタズラ好きの妖精パック。あるいわヴァルハラの厄介者ロキ。悪魔、死神、サードマン現象、ウィッシュマスター……人、時代によって呼び方は違ったよ。だが、なぜ生まれ、なぜ知性を獲得し、目的を探して生き、日々、世界に生の価値観を問うている。そういう意味では『ニンゲン』だよ……人間の定義など暗中模索だ」


 この悪夢から逃げ出そうと私は無我夢中で身体を動かそうとするが、身体は電池が切れた機械のように微動だにしない。

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