【春】  「人生はゆっくり好転し急速に悪くなる。はっきり見えるのは大惨事だけである」 原子物理学者エドワード・テラー

春(1) 首切り

 薄暗いジメジメした部屋は生臭さが漂い、長時間居ると気が狂うのではないと疑う。

 比喩で語る死のニオイとはこういうことを言い表すのかもしれない。


 私は手の中でうずくまるマウスを、テーブルに置かれた裁断機に乗せる。

 ビニール手袋からは震える感触は伝わるが、体温は感じられないのが幸いだ。

 鞠のように丸まった背中を押さえつけ、首を台の端へはみ出るように乗せて頭を伏せさせた。


 このマウスは解ってるのかな?

 自分の頭上に絶対的な運命を決定する要因があることを……。


 私は迷うことなくギロチンの刃を落とすように、裁断機のレバーを下げた。

 歯切れの悪い音と共に、台の隣に置いたトレーにマウスの切り落とされた首が、福引のルーレットから出た玉のように転がった。


 ごめんさない。

 その綿のような毛並みや鞠を思わせる体系からは、温もりを感じられなくなっている。

 もう、生き物の命を奪っているという感覚が乏しく、罪悪感も感じられない。

 ただ、首と胴の接合を解いているだけ。


 感情が凪ぎのように平坦で世界が白黒モノクロに感じられる。

 でも唯一、切断されたマウスの首から流れ出る血液は、鮮明に赤く見えた。

 白衣を見ると赤い染みが目立った。


 ヤダ。これ汚れ落ちないんだろうな……。


 私はマウスの首が置かれたトレーを両手でもち扉の代わりに取り付けられている透明なビニールカーテンを、のれんをくぐるように通り隣接する部屋へ足を運んだ。


「教授。お願いします」


「おぉ、ありがとう」と教授。


 色の始まりが白なのか、光のように複数の色が合成されて白いのか、始まりと終わりが解らないほど白い壁に囲まれた部屋。

 汚れ一つなく蛍光灯の明かりを幾分にも増幅させるので、薄暗い部屋から急に移り変わると目が眩む。


 教授は私が差し出したトレーを受け取るとメスとピンセットをそれぞれ持ち、ピンセットでマウスの頭部を固定してメスの先を突き立て切開する。

 トレーにはマウスの首から血液が走るよう広がっていた。

 次にメスでマウスの生首を押さえてから、切開した頭部の傷にピンセットの先を差し込み、傷口を強引に開く。

 ピンセットを傷の中へゆっくり入れ込むと、つまんだマウスの脳漿のうしょうを取り出した。


 5〜6ミリほどしかない小さな脂肪の塊。

 教授がピンセットで強く抜き出すと、脳幹が尻尾のように引きづられてから千切れた。

勢いのあまり空中でブンブン回る脳幹。


 マウスの脳は血液と色が相まってピンク色に覆われ、人と違いシワはほとんど無く触手が一束になったクラゲのように見えた。


 教授は粒のような脳を生首の脇に置いて、メスで輪切りにしていく。

 スライスした脳をプレパラートで挟んで、ガラス板を顕微鏡へかけてレンズ越しに脳細胞を覗きながら、語りかける。


「君は頭の良さそうなマウスさんだね~。どれだけお利口なのか、先生に見せてごらん?」


 少し変わった人だけど教授は脳科学の世界では、かなり高名なお方で科学雑誌『ネイチャー』にもその研究論文を発表して医学会を湧かせた。


 大学で生物学を専攻していると命に携わる実験に、関わらざるえない。

 私はここで数え切れない程の実験用マウスの首を撥ねている。

 学費を稼ぐ為の実験室のバイトは慣れてきた。

 教授は顕微鏡を除きながら私と会話を始める。


「マリさん。どうだい、仕事には慣れたかい?」

 

「最初は触るのも怖かったですけど、今は気にならなくなりました」


「研究者らしくなってきたね。学生の中にはマウスの命を奪うことに抵抗を持って、続けられない子も多いんだよ。とはいえ創薬の開発や神経のアルゴリズムを知る上では、命の代価は避けて通ることはできない。まぁ、科学に必要な人身御供ひとみごくうだね」


 文系は苦手だったから、聞き慣れない四字熟語は難しい。

 どういう意味なんだろう?

 教授は顕微鏡から目を離して私へ身体を向けると、テストでもするように聞いた。


「脳の活動とは簡単に言うとなんだい?」


「編みのように張り巡らせた脳神経ニューロンが情報を生体電気である信号パルスとして相互させる伝達現象です」


「そうだね。ニューロンはとても複雑で今だに全ての機能を理解出来ていない。しかし科学者や技術者はそれを模倣し、すでに類似するモデルを完成させている」


「AIですね?」


「その通り。人工知能の構造は人の脳に近い設計になっているんだよ。現在ではAIは人の知能を超えている。にも関わらず人間のように感情や精神、魂が宿る兆しは見えない」


「魂……ですか」


「こういう話は抵抗あるかね?」


 私は視線を泳がせた後、再び教授と目を合わせて、それらしい返事を返す。

 教授はイタズラ小僧のような笑みを見せて話を続けた。


「だろうね。急にこんな話を聞かせられたら一歩引いてしまう。少し話が脱線するが"中国の電話"という【思考実験】を知っているかい?」


「なんとなく聞いたことはあります」


「思考実験。すなわち特定の条件を設定することにより、考えつくあらゆる理論モデルの可能性と命題を考える仮想実験だ。中国の電話というのは、中国大陸は地球で最も人口が多い国だ。その国民が一斉に携帯電話で通話すれば電波が巨大なネットワークを作り、人の脳と同じ物を生み出せるという話だ」


「中国大陸が巨大な脳になる? そんな子供地味た話、ありえません」


「どうだろうか。人間の神経パルスは電気だ。なら同じ電磁気の電波でも脳の神経モデルを再現できるはずだ。それに脳が大きいほど知性は高いと証明されている。それが中国大陸ほどの大きさなら、名門大学がいらないくらいの知性体が生まれてもいいのではないかね?」


「ナンセンスとしか受け止められないです」


「そうだね。実はこの思考実験。現実にすでに存在・・しているのだよ」


 私は思わず「は?」と間の抜けた声を上げる。

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