第41話 小鳥は巣に帰る


 ラウレンツの先導のもと、リィリエは禁忌の森を駆けた。

 いくつかの夜を越え、暗い樹海を突き進む。恐れはなかった。リィリエはこの森で、ラウレンツと過ごしていたのだから。

 彼と共にいるからか、森はどこまでも静かだった。魔物にも出会わない。

 わずかなほの灯りに浮かび上がる糸杉の群れ、人間たちが暮らす世界では見たことのない花や植物、蜥蜴や鳥のすがたが目に映る。乳白色の霧がたなびき、耳にはかすかな虫の音と鳥の声。色彩が抜け落ちた世界には、永遠とも思える静けさが満ちている。


 心がはやるたびに、リィリエは深い呼吸を繰り返した。長い年月、百年の時を経ても、森は変わらず、ただそこに在りつづけている。そのことが彼女の心を落ち着けた。人間の世界しか知らなかった頃には、あんなに恐ろしかった森なのに。


 ここは異形の魔物が住まう、不可侵の森だと言い聞かされて育った。魔物が飢餓期に苦しんでいることも、狩人サルタリスの存在も、狩人サルタリスたちが暮らす箱庭のことも、何も知らずに生きてきた。──ラウレンツにさらわれるまでは。


 ラウレンツは森を旅するあいだ、かいがいしくリィリエの世話を焼いた。果物や魚を摂って彼女に与え、夜には彼女が居心地良く眠れる寝床を探した。リィリエが焚いた火の側で夜番をして──そして、けっしてリィリエの前ではそんなそぶりを見せなかったが、彼女が眠ったあと、彼は密かな苦悶の声を漏らしていた。


 ──〝おそらくあなたの右腕一本では、魔物の腹は満たされないでしょう〟


 ハイネの声がリィリエの脳裏によみがえる。

 リィリエは眠ったふりをしながら、息を殺して、ラウレンツの苦痛がすこしでも軽くなるよう、祈り続けた。


 数日ののち、ラウレンツとリィリエは森を抜けた。

 彼が案内してくれたのは、草が生い茂る荒れた土地だった。白く乾いた草が風にそよいで、寂しい葉擦れの音を立てる。

 リィリエが視線を落としながら歩き、やがて立ち止まり、遠い景色を仰ぐ。


「あの丘陵の線……いつも見ていたリンデの木は、ずいぶん大きくなったけれど…………」


 リィリエの言葉が風に流れていく。彼女は白金の髪をなびかせながら、ラウレンツに向きなおった。


「……本当に百年前に焼け落ちてしまったのね」


 今彼女が立っているのは、彼女の生家があった場所だ。

 ここに建っていた小さな家、その出口扉を開けるといつも目にした思い出の景色が、リィリエが現実で見ている景色と重なる。

 なだらかな丘陵と大きな木を臨める、シグリの村。今はもう、灰すら残ってはいないけれど……。


「──行きましょう」


 未練を振りきるように、リィリエは白い外套をはためかせてきびすを返し、その場をあとにした。


 二人は丘を登る。リィリエが幼い頃、かみさまの教えを乞うために、嬉々として通っていた道だ。その道が、今は長く険しく感じる。磔刑のために十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで苦難の道を歩いた御子を、リィリエは思い浮かべた。


 やがて二人は教会堂の門扉へと辿り着く。

 ラウレンツはリィリエを見た。それから彼女のほそい手をすくいとり、励ますように軽く握る。そこで初めて、手の震えを自覚したリィリエは、大きく息を吸って吐き、決意を固めるようにラウレンツの手を握り返した。


 扉金具の輪を数度、門扉へと打ちつける。鈍い音が響く。二人は手を握り合ったまま、もう片方の手で共に扉を押しあけた。蝶番ちょうつがいが軋む音がして、目の前に石造りの身廊がひらかれる。

 リィリエは踵を鳴らして、祭壇への道を進んだ。ラウレンツもあとに続く。


「──おかえりなさい」


 とつぜん響いた声に、リィリエとラウレンツは足を止めた。

 しばらくして、黒い祭服の上に白の長衣を着た人が、祭壇の脇にある扉から姿を現す。


「……ハイネ神父さま」


 年若くうつくしい神父に、リィリエは呼びかけた。

 ハイネはにこりと笑って、白雪色の長い髪を揺らしながら、ゆっくりと祭壇へと歩み寄る。


「私はずっとあなたの帰りを待っていました。また共に暮らせる日が来るのを楽しみにしていました。……けれど私が待っていたのは、狩人サルタリスとして運命の相手コンキリオを倒し、使命を果たしたリィリエです」


 彼の靴音が止まる。祭壇の前でリィリエと向かい合ったハイネは、まるで不出来な幼子をさとすように、小首を傾げながら尋ねた。


「どうして魔物を狩らないのですか、リィリエ。隣の魔物は、あなたの運命の相手コンキリオでしょう」


「……ラウはわたしの大切な魔物です」


 リィリエの答えに、ハイネは目を見開いた。


「それより神父さま。ここに来る前に、わたしはシグリの村に行きました。正確には、シグリの村の跡地に」


 リィリエはそこで言葉を切った。ハイネの反応を待っていると、やがて彼は静かに嘆息する。


「……ああ、見てしまったのですね。せっかく旅立ち前の夜に、あなたは我慢したのに」


 あまりに穏やかなハイネの物言いに、リィリエの肌が粟立った。

 ──そうだ。森に旅立つ前夜、眠れずに厨房に行ったとき、ハイネもまた厨房に来た。あの時は偶然だと思ったけれど、リィリエがシグリの村がないことに気づかないよう、ずっと様子をうかがっていたのだとしたら。


「どうしてわたしを騙したんですか……!」


「騙す? 心外です、リィリエ。私はあなたの狩人サルタリスとしての道行きに、余計な懸念を加えたくなかっただけなのですから。私が真実を話せば、あなたは運命の相手コンキリオ狩りどころではなくなるでしょう」


 激高したリィリエに、ハイネのやわらかな声が被さる。


「……神父さまはそんなに魔物が憎いのですか?」


 ぽつりと尋ねると、ハイネの動きが止まった。


「どうしてそこまでして、わたしにラウを狩らせたいのですか……!」


 リィリエが震える声で訴える。

 ハイネは一瞬戸惑いの表情を見せたが、強くまたたいて、いつもの笑顔をかたち作った。


「──私はね、リィリエ。昔、大切な人を魔物に殺されました。だから魔物が憎い。魔物は私たち人間からあらゆるものを奪う。愛も、ぬくもりも、命も。すべてを」


 ハイネが祭壇を手のひらで撫で、リィリエたちの立つ身廊へと歩み寄る。


「魔物は神に愛されていない。呪われている。そして、私たちからすべてを奪う生き物です。その魔物がどういった甘言かんげんであなたを騙したのかは知りませんが……目を覚ましなさい、リィリエ。狩人サルタリスとは神の使いである使徒から、魔物を狩る使命を受けた者なのですよ」


 ハイネの瞳が鋭くラウレンツを射った。

 リィリエは身を乗りだしてハイネの視線をさえぎり、かぶりを振る。


「……残念です」


 ハイネが静かに微笑んだ。


 堂内に鋭い金属音が響き渡る。長い余韻がリブ・ヴォールト天井にこだまして、天へと吸い込まれてゆく。

 磨き抜かれた石の身廊に映る、金属のひらめき。その虚像の上にあるのは、ラウレンツをかばうように大鎌ファルクスを振りかざしたリィリエと、はらわたから何本ものほこや剣、斧を突き出したハイネの武器が交わる光景。


「……いつ気づいたのですか?」


 ハイネが涼しい顔で一歩、リィリエへと歩み寄る。必然的に彼のはらわたから出た武器がリィリエへと近づく。金属が軋む音がして、彼女は大鎌ファルクスに力を込めた。


「アンゼルムさまが気づかせてくれました。約百年前に焼け落ちたシグリの村……わたしと神父さまはそこで暮らしていた。わたしが大怪我を負って眠っている間に、百年の時が流れているのだとしたら……長い時を生きられる方法を、わたしはそれしか知りません」


 リィリエは歯を食いしばって、素早く身を引いた。その刹那に襲いかかった数多の武器を、大鎌ファルクスの一薙ぎで弾き返す。


 リィリエは体勢を整えて、まっすぐに武器を構えなおした。かつての恩師、父のように兄のように慕い、彼女を狩人サルタリスの道に導いてくれた、ハイネに向けて。

 彼女の唇が、真実に触れる。


「ハイネ神父さま。──あなたも狩人サルタリスなのでしょう?」

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