第38話 解放


 昔語りを終えた、黒髪と赤い目を持つ青年──リィリエの運命の相手コンキリオ──が、黙ってリィリエを見つめている。反応をし量ろうとするように。


 青ざめた唇を噛む。彼の話をつくりごとだと言えたら、どれだけ楽だろう。けれど、リィリエのなかに残る、赤い目の魔物に喰われた記憶、ロザリオをよすがにした想い、使徒の種子を与えられた時に見た、ロザリオを贈る手に触れられたときの幸福感が、リィリエの喉から声をうばった。


「……これで分かっただろう」


 青年が……ラウレンツがかすれた声で囁く。


「そのロザリオの持ち主であるリィリエが、生きているはずがないと言った理由が」


 彼の語ったリィリエは、肺や心臓が未熟で、成人まで生きられないと言われていた。すこしはしゃいで踊るだけで、息を切らせて座りこんでいた。

 けれど今ここにいるリィリエは、激しく動いても身体になんの問題もない。それに、ラウレンツは言った。顔も、すがたも、あらゆるものが違うと。


(どういうことなの……)


 寄る辺のなさに眩暈めまいがした。自分がどんどん不確かになっていくような気がして、リィリエは震える手で自分を掻きいだく。

 青ざめた顔をした彼女を見て、ラウレンツは嘆息した。


「……その分では、俺の知るリィリエの情報は得られそうにないな。……もういい。もといた場所に送っていこう」


 立ち上がった彼に腕を引かれる。リィリエは人形のように、なすがままになった。


 洞を出ると、夜明けが森を明るませていた。身を刺す寒さが風となって吹きつけ、肺を凍らせる。黒い木々の隙間から、この冬はじめての雪が、はらはらと舞い落ちる。湿った腐葉土にも薄ら雪が積もって、歩く二人の足跡を白く残した。


 黙って歩き続けた二人が、やがて足を止める。木々が開けたところに、白んだ炭が見えた。火の始末をした跡だ。

 あたりにジゼルとミアのすがたはなかった。


「……ここだと思うが」


 彼が気遣わしい視線を投げる。リィリエは黙ったままうなずいた。

 おそらく二人はリィリエが行方不明になったと思い、救いを求めるために、アンゼルムの箱庭に急いだのだろう。


 彼はしばらく黙ってリィリエを見ていたが、やがてきびすを返して歩きはじめた。

 立ちすくんだリィリエと、ラウレンツの距離が離れていく。空から落ちる粉雪が、音もなく空白を埋めていく。


 遠ざかっていく足音が、おもむろに止まった。

 リィリエのもとへ駆ける音が近づいてきて、突然強く両肩をつかまれる。


「……お願いだ」


 リィリエが顔を上げると、ラウレンツの揺れる瞳が間近にあった。


「そのロザリオは、リィリエのロザリオに間違いない。お前がそのロザリオを大事にしていることは分かっている。けれど、どうか……リィリエの形見として、俺に譲ってもらえないだろうか」


 リィリエの琥珀の瞳が、ラウレンツの痛切な表情をとらえる。

 視線は彼の胸もとへと動く。首から下がる、リィリエのものと同じロザリオ。彼の語るリィリエが、ラウレンツに贈りたいと言っていたロザリオ。

 ……彼はひとりぼっちになったあと、叶わなかった願いを果たしたのだろうか。今のように人間のすがたをとり、人里に下りて働き、稼ぎを得て、彼女と揃いの祈りのしるしを買って。


 リィリエはラウレンツに愛されていた。そして、リィリエもラウレンツを愛していた。

 ──わたしじゃない。

 リィリエは拳を硬く握った。


「……いや」


 唇がひとりでに動いた。ラウレンツが目を見開くさまが、視界に入る。


「嫌よ、ロザリオは渡さない」


 リィリエは彼の赤い瞳を睨みつけた。腹の底に重いおりが積み重なっていく。ざわざわと不快感がを満たし、名前のつかない感情が湧き上がる。

 繋がらない。記憶と心が繋がらない。でも、彼の言うリィリエはわたしじゃない。


 ──それならどうして、このロザリオが大切だと感じるの?


 浮かんだ疑問に胸を突かれて、リィリエの視界が揺れた。

 疑問を振り払うように腕をぐ。怒りと不安に呼応してあらわれた、輝く大鎌ファルクスが空気を裂く。不穏ふおんな風鳴りに似たが響いた。ラウレンツが、紙一重で刃をかわす。

 リィリエのかつての右腕の長さ、その二倍はあろうかという巨大な大鎌ファルクスが、金属がこすれるような不協和音を奏でながら、振り上げられる。


「あなたは魔物……わたしの運命の相手コンキリオ……! あなたを殺して、わたしはシグリの村に帰る……!」


 言葉とはうらはらに、痛ましい声が上がる。

 リィリエは強く踏み込み、大鎌ファルクスいだ。今度は広範囲にわたる一閃いっせんで、ラウレンツはその場から大きく飛び退しさる。

 糸杉が轟音とともに倒れた。武器に振り回されて、足もとがふらつく。


「シグリの村……?」


 いぶかしげな声でつぶやく彼に、リィリエは体勢を立て直して「そうよ」と答えた。

 黄金の小麦が豊かに実る村。愛らしい弟妹と、頼れる父母の暮らす集落。丘の上には教会があり、ハイネが幼子たちに教えをほどこしている。四季とともに暮らしは移ろい、それが十二の月の巡りごとに繰り返される。こうしてリィリエが禁忌の森にいる今も……。


「お前はそこから来たと言うのか」


 さらに問いを重ねるラウレンツに、リィリエはうなずく。


「馬鹿な」


 戸惑いのにじむ声が投げられた。


「……シグリの村は火事で焼け落ちてなくなったはずだ。百年も前に」


 リィリエはまばたきすら忘れて、その場に立ち尽くした。


「……どう、いう」


「言葉通りの意味だ。シグリの村は百年前に焼け落ちた。リィリエを帰してしばらく、村はなくなった。今は荒れた土地が残るだけだ」


 ──嘘よ。

 そう言いたいのに、リィリエの唇は震えて動かない。


 彼は嘘を言っている。リィリエは教会で目覚めた。神父であるハイネが、彼女をいたわって癒してくれた。村のみなさんが、いつものように麦を分けて下さったんですよ。カーシャを食べるリィリエにハイネが微笑む。……そういえば目覚めてから今まで、リィリエはシグリの村を見ていない。森に旅立つ前夜も、未練が生まれる気がして、村をのぞむのを諦めた。


 ……そんなはずはない。神父であるハイネが、どうしてリィリエに嘘をつく? ハイネから伝達を受けて、フォルモンド王国から使いとして来てくれたリヒトもルカも、リィリエを不審に思うようなそぶりはなかった。リィリエを受け入れてくれた箱庭の主、アンゼルムだって。


 ……では、もし。ハイネもリヒトもルカもアンゼルムも、リィリエの知らないことを知っていて、それを黙っているのだとしたら……?


「──違う!」


 凍えた唇から強い否定がほとばしる。

 リィリエは一足飛びでラウレンツのもとに踏み込み、大鎌ファルクス一閃いっせんした。

 三日月の輝きが木々を断つ。攻撃をかわした彼に、さらに追撃を繰り出す。


「あなたの話は、全部嘘よ……!」


 木々が崩れる轟音が耳をつんざく。リィリエは無我夢中で刃を薙いだ。決して斬れない揺れる心を、舞い落ちる雪を断つように。


「嘘じゃない! お前こそ、どうしてそんなことを……」


 ラウレンツは広範囲におよぶ斬撃を後退して避けながら、彼女に問う。反撃するそぶりはない。──彼は人間を傷つけないと誓ったから。


 歯噛みして、ラウレンツへと跳躍する。全身を使って大鎌ファルクスを振り下ろす。硬い手ごたえがあり、刃を下ろした風圧で、積もっていた雪が勢いよく舞い上がる。

 雪煙が風に払われて、リィリエの視界が戻る。

 そこには大鎌ファルクスに貫かれた青年ではなく、硬い爪で大鎌ファルクスの切っ先を受け止める、異形の魔物のすがたがあった。


 黒い毛に覆われた魔物のすがたを目にして、リィリエの心臓が強く脈打つ。

 ──運命の相手コンキリオ

 わたしが愛した魔物……。


「違う、違う、ちがうちがうちがう……!」


 記憶が揺らいで、頭が割れるように痛んで、不安がうずまく。

 右腕がいびつな音を立てた。リィリエの感情に共鳴して、大鎌ファルクスが禍々しいほどに大きくなる。武器と肩が繋がる筋繊維が武器の重みで引き絞られ、リィリエは悲鳴を上げた。


 ──これで魔物を殺せる。


 使徒に種子を与えられた時の、熱に浮かされたリィリエの声がよみがえる。


 ──そう、すべて殺してしまえばいいの。


 もうひとりのリィリエが耳もとで囁く。


 ──あなたは狩人サルタリスなんだから。


「いや……!」


 巨大に育った大鎌ファルクスを、もはや支えることすらできはしない。重さに耐えかねて、くずおれる。


 ──わたしはだれ。

 雪に埋もれて彼女は自問する。

 わたしはだれ。わたしはだれ。こわい。帰りたい。帰らせて。

 ……でも、どこに帰ればいいの。


「かみさま……」


 リィリエの琥珀の目から涙がこぼれ落ちる。わななく左手が、自然と胸もとに引き寄せられる。そこに下がるロザリオをたぐって、強く握りしめて、彼女は深くこうべを垂れた。


 強い風が吹いた。リィリエの白金しろがねの髪がなびく。

 彼女の頬にぬくもりが触れる。冷たい雪にさらされたあとに、あたたかな毛布でくるまれたように、こころよい安堵が沁みわたる。彼女が目覚めて、はじめてロザリオに触れた時のようなぬくもりが、身体のすみずみにまで行き渡っていく。


 自分を抱きしめているものに、彼女は震える手で触れた。

 ごわついた毛の感覚が届く。

 リィリエは今、魔物のかいなのなかにいる。


「……リィリエ」


 魔物がくぐもった声で彼女の名を呼んだ。

 こみあげる感情に、リィリエは強く首を振ってあらがう。


「……離して」


「離さない」


 大きな手が、そっと彼女の頭に乗って、やさしく髪を撫でた。その感触に胸が苦しくなり、目じりに熱がこみあげる。


「俺は、もう二度とリィリエを離さない」


 ラウレンツの腕に力がこもる。


「……お前はリィリエだ。百年の時が経っていても、すがたが違っていても、お前の祈るすがたを、俺は見間違えたりなどしない」


 まばたきを忘れたリィリエの目の前で、白く清らな雪が、音もなく舞い落ちる。


「名前を呼んでくれ」


 魔物がリィリエにこいねがう。


「──もう二度と、ひとりにはさせないから」


 音を立てて、リィリエの大鎌ファルクスが雪原に落ちた。まがまがしいほどに大きくなっていた武器が、またたく間に縮んで、白くなよやかな少女の腕になる。

 雪まじりの凍てつく風が、リィリエの頬をなぶる。白金しろがねの髪が流れる。空気は冷たくて、体温が奪われているのに、抱きしめられた身体が熱い。


 己の心臓の音を聞く。寄り添う魔物の心音がそれに重なる。そのふたつの旋律を耳にして、自我が深層へと沈んでいく。

 あやふやだった記憶が弾け、ばらばらになり、ひとつひとつが時計を逆戻しにしたかのようになり、リィリエの意識に語りかける。


 魔物に出会ったときのこと。彼が苦しんでいると知ったときのこと。彼を救いたいと思ったときのこと。何にも代えがたい愛しさを感じたときのこと。

 想いのひとつひとつがともしびとなり、寄り集まって光となる。つどい、たなびき、流れとなり、渦を巻いて、リィリエの記憶を再構築していく。


 ──〝逃げて。逃げて。逃げて。どうか、無事でいて。かみさま、お願いです。わたしはどうなってもいいから──〟


 そうだ。血まみれになり、意識が朦朧もうろうとして……それでも気を失う間際に祈ったのは、村人らに矢を放たれるラウレンツが、無事に禁忌の森に帰ること。


「……ラウ」


 唇からこぼれ落ちた言葉の一滴に、彼女のすべてが波紋となって応じた。

 心が震える。知れず涙があふれる。リィリエは両手をさしのべて、取り戻した想いを確かめるように、大きなラウレンツの身体を掻き抱いた。


「ラウ……!」


 彼女の抱擁に、彼は応える。

 異なるふたつの魂が寄り添い、ふたつのロザリオが揺れて重なりあう。


 森に、雪が降り続ける。

 ふたりのすがたを隠すように、白く。

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