第37話 こいねがう夜


 おぼろがかった片割れ月が滲んでいる。

 ラウレンツは洞のそばで天を仰いで、淡い月光の恩恵に目を細めた。


 あれから飢餓期の発作は起こっていない。空腹は常に身のうちにたゆたっていたが、あの時の衝動に比べたら、随分と楽なものだと思う。

 いつものように木の実や小動物、魚などをんで空腹をごまかし、聖書をくりかえし読み、昼夜が繰り返されるのを眺める日々。


 最後の別れから数日が経った今も、折にふれてリィリエの面影が鮮やかによみがえる。白い月を眺めているときに。あの湖畔に立ち寄ったときに。白く清らな百合を目にした時に……。


 ──今夜はもう、眠ろう。


 まなうらに浮かぶ少女のまぼろしに、魔物はかぶりを振って、洞へと向かった。

 数歩歩いて、背後で立ったわずかな物音に立ち止まる。腐葉土をにじる軽い足音だと気づいて、不安と浅ましい期待がないまぜになり、ラウレンツはその音の正体を確かめようと、振り返った。


 強い感情が胸を突く。

 白い服のあちこちを土で汚し、下草に切られたのか、足に無数の赤い傷をつくり、白金しろがねの髪を乱し、疲労のにじんだ顔で、それでもラウレンツのすがたを見て微笑む、リィリエがそこに立っていた。


「……なぜ」


 彼はうわごとのように声を漏らした。それから、彼女がラウレンツの護衛もなしに、森のなかを歩いてきたのだと気づいて、震えがはしる。恐れと怒りが、彼の喉を震わせた。


「どうしてここに来たんだ……!」


「もう村には戻らないわ」


 彼女は穏やかにつぶやいた。


「身の回りのことをすませて、心のなかで家族にお別れを告げてきたの。夕暮れ時に水汲みへ行って、そのまま途中で抜け出してきたわ。また妖精にさらわれたと、そう思ってくれるといいのだけれど……」


 リィリエはそこで言葉を切り、彼に向かって両腕を広げる。


「ラウ」


 名前を呼んでもラウレンツが動かないのを見ると、彼女は自ら彼のそばへと歩み寄り、そのかいなで魔物をそっと抱擁ほうようした。


「……やめてくれ」


 ラウレンツの声が揺らぐ。リィリエは彼の言葉に構わず、ラウレンツを抱きしめたまま、黒くて硬い毛並みを撫でた。

 硬く縛っていたラウレンツの心が、溶けそうになる。


「駄目だ、リィリエ。頼む……俺は、お前を食べたくないんだ」


「……いいの」


 裏返って引きつったラウレンツの声を、彼女はやさしく受け入れた。身体を離して、彼の真紅の瞳を覗き込む。


「いいの、ラウ。わたしを食べて。──そうしたら、ラウはあんなに苦しまなくてすむのでしょう?」


 ラウレンツはぞっと肌を粟立てた。

 大きくかぶりを振って拒む。するとリィリエは、しばらく迷うそぶりを見せて、まつげを伏せて視線を落とした。


「わたしね……できそこないなの。生まれつき心臓や肺が小さくて、不完全なんだって」


 突然の告白に、ラウレンツは驚いて視線を上げる。


「不完全だから、うまく走れないし、踊れない。成人する十五の年まで生きられないって、お父さんとお母さんが話していたのを、わたし小さい頃に聞いちゃったの。今のわたしは十四で……もう、そんなに長くないんだと思う」


 彼女は微笑むために唇を曲げて──今にも泣きそうな顔になる。


「だからね、ラウにさらわれたって知ったとき、怖かったけれど、ああこれはかみさまのおぼし召しなんだ、って分かったの。わたしの命が無駄にならないように、わたしを必要としてくれるところへ、かみさまが導いてくれたんだって……」


「……リィリエ」


「ラウは嫌だと思うかもしれない。でも、人も魔物も、食べなくちゃ生きられない。これは生き物がみんな同じ重さで持つ、原罪なの。あなたの罪はゆるされるわ」


「リィリエ!」


 ラウレンツは彼女を抱きしめた。

 その勢いに、彼女の白金しろがねの髪が弧を描く。さらさらと広がって月下に輝き、まばゆい光でリィリエの目ににじんでいた涙をあばいた。


「なんで……なんでそんなことを言うんだ! 俺は何度もかみさまに祈った。お前だけは、どうか幸せになれるようにと。かみさまはすべてのおこないを見ているのだろう。お前みたいな人間が、しあわせになれないはずがない……!」


「……しあわせよ?」


 声を枯らして言いつのる彼の背に、リィリエは震える手を添えた。


「わたしはしあわせだった。後悔なんて何もない。シグリの村に産まれたことも、可愛い弟妹に恵まれたことも、お父さんとお母さんに大事に育ててもらったことも……ラウに出会えたことも」


 リィリエが微笑む。瞬間、身の毛立つ感覚を覚えて、ラウレンツは彼女から身体を引きはなした。


「ラウ、大好きよ」


 そう囁く彼女の手には、抜身のナイフが握られていた。ラウレンツの目が銀の輝きにくらむ。彼女の手が弧をえがいた。

 生々しい音がして、リィリエの喉から鮮血がほとばしる。




   〇




 彼女は血に濡れていた。


 おぼろがかった片割れ月がにじむ夜。あたりには黒い糸杉の群れが広がり、そのあわいには乳白色の濃霧が立ち込めている。濡れそぼった空気に溶けた、木々の匂いが清冽せいれつな森。

 森の片隅、朽ちかけた落ち葉の上に、一滴、また一滴と垂れているのは、まだあたたかなリィリエの血だった。その血は彼女のまろやかな首すじから次々とあふれ、かぼそい鎖骨を流れ、白い服を赤く汚しながら、体の輪郭をつたい、つまさきをうるませて、たまとなってしたたり落ちている。


 ラウレンツはリィリエを両手でつかんで、宙吊りにしていた。血の匂いに欲望を引き出されて、彼は荒い息を吐いている。おとがいの間から鋭い牙がのぞく。

 それでも彼がリィリエの首すじに喰いつかないのは、必死で欲望にあらがっているからだ。喉の奥で岩を転がすようにうなりながら──彼の大きな体のなかで、理性と本能が激しく争う。


「ねえ」


 首から血を流しながら、リィリエがラウレンツに囁く。


「お願い……もうこれ以上、苦しめないで」


 リィリエの言葉が苦しげな吐息にかすれる。哀願と共に差し出したほそい指先が、ラウレンツに届く。

 はやく食べてと哀願するその手を避けて、ラウレンツは赤いまなこをすがめて彼女を見た。


 リィリエを食べたくない。

 彼女には生きていてほしい。

 たとえこの身が朽ち果てても、彼女のさいわいを望むものでありたいのに……。


 ラウレンツの鋭いまなざしを受けて、彼女は唇で弧を描き、うつろになった目をやわらかく細めた。微笑まれて、胸がねじ切られるような痛みを覚える。


 ──リィリエは、俺に生きていてほしいんだ。


 一陣の風が薄雲を払い、ひときわ明るい月光が、地上のありとあらゆるものの輪郭を暴いた。風にはかなく惑っていた消えかけの火が、煽られた拍子に大きく燃え立つのに似た輝きで、リィリエの瞳が透明にきらめく。彼を魅了する輝きで。

 彼女の唇が開いて、あまやかな囁きが漏れる。


「わたしを──たべて」


 ラウレンツの喉から雄叫びがほとばしった。

 リィリエの肩に牙がめり込む。強靭なあごが、うすい肉と骨を砕いていく。

 痙攣けいれんした彼女の体から、血がごぽりとこぼれ、ぼつぼつと土に落ちてうずもれる不協和音が響いて──彼の目に小さな銀の輝きが映った。彼女の首にかかった小さな鎖、その先に下がったロザリオが放つ光……。


「あ……」


 彼の目の焦点が定まる。

 彼女に深々と牙を立てていることに気づいて、彼はおとがいを開いた。血と肉がこすれる粘ついた音がする。


「あ……ああ、リィリエ……!」


 血まみれになったリィリエからの返事はなかった。

 ラウレンツは彼女を強く抱いて、止血をこころみながら森を駆ける。


 森の出口へと近づくにつれて、複数の赤い火が、煌々こうこうと灯るさまが見えた。森狩りだ。夕刻にすがたをくらましたリィリエを、村の者たちが探している。ラウレンツはその灯りを目指して、土を蹴った。


 木々を抜けると一気に視界が開けた。数多あまたの炎が、彼の目をくらませる。

「魔物だ」視野が戻らないラウレンツの耳を、悲鳴めいた台詞がつんざいた。


「魔物だ!」「リィリエがいる!」「血が……!」「矢を射れ!」「炎をこっちに!」

人間たちの怒号が降りかかる。彼はほっと息をつき、安堵あんどした。

 ──きっとこの人間たちが、リィリエを助けてくれる。


 彼の想いは激痛に断ち切られた。人間たちの放った弓矢が、彼の腕に次々と突き刺さる。人間たちの口から高揚した声が上がる。ラウレンツは脂汗をにじませながら、リィリエをそっと慎重に、土の上へと横たえた。

 一足飛びに森の深くへと戻る。魔物を射ってたかぶった人間たちが、彼の後を追う。

 矢が何度も身体をかすめた。ラウレンツは森を駆けながら月をあおぐ。


 ──かみさま。もし俺のようなものの言葉にも、耳を傾けてくださるなら、どうか願いを聞いてください。

 どうか、リィリエの傷を綺麗に癒やしてあげてください。どうか彼女をそばにお召しになるのを、もっと先伸ばしにしてください。お願いです……。


 森は、その闇で魔物を抱きとめ、気配を断ち切った。

 魔物を追うことを諦めた人間たちは、やがて火をかかげて森から去り、人の領域へと帰っていく。

 あとには、何事もなかったかのように、森の木々が織り成す静寂が残る。

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