第36話 抵抗


 下弦の月が傾いて、夜空から隠れようとしている。

 ほんのわずかでもいい、リィリエと別れる時を先延ばしにできたなら……。そう思っていたラウレンツだったが、あまりにも夜が深まってきたため、彼女を村に帰さなければと思いはじめる。


 リィリエは、湖畔の芝生に横たわって眠っていた。踊り疲れてしまったのだろう。彼女のすぐそばで、すこやかな呼吸に耳を澄ませていたラウレンツは、改まった気持ちで彼女を眺めた。


 ひと呼吸のたびに、ゆっくりと上下する細い身体。揺り起こしても大丈夫だろうか。リィリエの輪郭はあまりに華奢で、ひとつ間違えたら壊してしまいそうだと、いつも思う。

肌が白くてやわらかくて──そう、ほんのすこし爪を立てて力を入れてしまえば簡単に破れる──はだのしたに眠る彼女の肉は、どんな色をしているんだろう。血はどれだけ赤く、あまいだろうか……。

 ラウレンツは我に返った。


(……今、俺は何を考えていた?)


 湖畔から吹き寄せた風が、ラウレンツの頬をなぶった。思わず目を閉じる。

 風が弱まったのを感じて目を開くと、リィリエの白金の髪が、黒い森のなかでひときわ明るく輝いて、さらさらと風になびいているさまが見えた。彼女の髪の匂いが鼻腔をくすぐる。


「……っ!?」


 身のうちから湧き上がる衝動に、呼吸を奪われる。

 人の匂いを吸って、身体が、血が、熱くなる。ラウレンツは砕けんばかりに歯を食いしばり、膝を突いてひたいを地面に擦りつけた。苦悶のあまり息すら満足にできない。全身から汗が噴き出る。身体の震えが止まらない。

 ける。渇いている。足りない。足りない足りない足りない──


(飢餓期の発作……!)


 ラウレンツのなかで育って膨らんだ欲望が、彼を内側から喰い散らかしていく。以前、発作は嵐のようだと思っていたが、回を増すごとに酷くなり、今では狂風が身のうちで肉をえぐりとっているようだ。

 生きたまま、腹を焼きごてで潰されるような責め苦がラウレンツを襲う。このまま狂うかもしれないという恐怖に駆られる。

 これが、これから先、人間を食べるまで、何度でも繰り返される……。


「……かみ、さま」


 息も絶え絶えの彼の口から、うめき声が漏れた。苦痛のあまり大きくわななく手を、押さえるように組み合わせ、硬く握って、祈りのかたちをとる。


「か、み、さま。いや、だ」


 捻じ曲がった譫言うわごとに、隣で眠るリィリエが目を覚ました。身体を起こした彼女の動きに、ラウレンツの全神経が集中する。

 それは捕食動物を目の前にした、肉食獣の本能。


「……ラウ?」


 ──戸惑う彼女のあまい声、そっと彼に触れる指先のやわらかさ。


「触るな!」


 ラウレンツは全身でリィリエを拒絶した。びくりと彼女の指先が震える。しかし彼女は「苦しいの、ラウ?」と、彼の身体を揺り動かした。


 鋭い打音が森に響く。ラウレンツに叩き飛ばされて芝生に転がったリィリエが、乱れた髪の隙間から、驚愕に見開いた目を覗かせた。


「離れ、ろ……俺、……リィ、リエ……喰い、たく、ない」


 もうラウレンツには、この想いが声となっているのか、それとも心で思っているだけなのかも分からなかった。飢餓が身体をくまなく満たし、絶えることなく責めさいなむ。耐えきれずに土を掻きむしった爪ががれ、鋭い痛みが指先の神経を貫く。


 ラウレンツは喉を潰さんばかりに咆哮した。

 湖面が震え、森がざわめき、鳥や動物が鳴き声を上げて、逃げていく。


 意志とはうらはらに、リィリエの身体に手が伸びる。

 ラウレンツは自我のすべてを注いで、手を止めようと試みた。けれど腕の動きは止まらない。


 ラウレンツのおとがいが割れて、鋭い歯があらわになる。彼は、自身の腕に牙をめり込ませた。

 激痛が脳を揺さぶり、血があふれ、狂った唸り声が上がる。鉄錆てつさびの味と匂いが口内を穿うがつ。傷口がけて心臓が強く脈打つ。激痛が身体の隅々にまで行き渡り──やっと腕の動きが止まる。


「逃げ、ろ」


 血を浴びながら、ラウレンツは息も絶え絶えにつぶやいた。

 視界がぼやける。白金と白、薄灰色のもやとしてしか、彼女のすがたを捉えられない。


 どうか、逃げてくれ。

 俺のことなど、見捨ててくれ。お願いだ。

 誰よりも何よりも大切な、リィリエ。




   〇




 雫が落ちる澄んだ音が広がる。慣れ親しんだ響きを耳にして、ラウレンツの意識が次第にはっきりとしてきた。起き上がろうと手を突くと、腕に鋭い痛みが走る。痛んだ箇所を見ると、血濡れの布切れが巻かれていた。

 一瞬身を硬くして、激しい飢餓感が鳴りを潜めていると気づいて、息を吐く。


「……どうして逃げなかった」


 彼は横たわったたまま尋ねた。


「──どうしてって聞きたいのはわたしのほうよ」


 ラウレンツの背後から、怒りと悲しみをはらんだ、途方にくれた声が返ってくる。


「あんなラウを置いて、逃げられるわけないじゃない。あの時、わたしが眠ってるあいだに何があったの? 何があんなにラウを苦しめていたの?」


 リィリエの今にも泣きだしそうな声が、ラウレンツの胸を締め上げた。


「お願い。ちゃんと話して。このままじゃわたし、ラウに何もしてあげられない」


 悲痛な声の波紋が広がって、消えていく。洞にしんとした静けさが戻った。


「……何もしなくていい」


「ラウ」


「頼む。もう、この森には来ないでくれ」


「ラウ、どうして」


 リィリエの声がすすり泣くものになる。その痛ましい響きに、懸命に抑えていたものがあふれ出た。


「──俺が魔物だからだ! お前を食べたくて食べたくて仕方がないんだ!」


 振り返って見た彼女は、石膏のように凍っていた。澄んだ琥珀の虹彩、そのまんなかにある瞳孔に、醜い魔物のすがたが映りこんでいることに気づいて、ラウレンツは嫌悪に顔をそむける。


「……魔物は人間を食べるまで飢餓に苦しみ続ける。だけど俺は……もう人間を殺したり、傷つけたりしたくない」


 視界に彼女のすがたを入れないよう、ラウレンツはうつむいた。


「俺は、お前と一緒に埋葬したあの少年のように、何もあやめず、静かにかみさまのもとへ行きたい。でもお前がそばにいたら、その願いは叶わない。お前と一緒にいたら、きっと俺は本能に負けて、お前を食べてしまう……」


 そこで言葉を切ると、ラウレンツは心を閉じてリィリエを抱き上げて、そのまま洞を出た。夜明け前の薄紫の空、夜露に濡れた森の匂い、それらすべてを振り払って、彼は森のなかを駆ける。

 森の出口に辿り着くと、ラウレンツは足を止めた。リィリエの身体を草むらに下ろし、一瞥いちべつもくれずに背を向ける。


「ラウ」


 リィリエがかぼそい声で、彼の名を呼んだ。

 すがるような響きに、ラウレンツは硬くあぎとを噛みしめる。


「二度と森には来るな」


 冷たい声だけを残して、彼は彼女のもとから立ち去った。

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