第30話 渇き
──ああ、ついにこの日が来たのか。
そのとき青年が真っ先に抱いた感情は、
魚や木の実をいくら口にしても、空腹が収まらない。
(……どうしたものか)
青年はひとり、欠けた月を眺めながら考える。
陽の光と違って、月の光は魔物にもやさしい。硬質な下生えの葉が、白い仄灯りを宿すさまを眺めているうちに、青年は人を愛した彼女のことを、ヴェルニの街に人喰いの魔物が出たという噂を思い出した。
(──正気を失う前に、人を食べるしかない)
彼はいままでに訪ねた、街や村の様子を思い描く。
大きな街は複雑に入り組んでいる上に、人の数が多いから、空腹を満たしに行くのは止めた方がいいと思った。村によっては魔物に生贄を捧げるところもあったが、そうした生贄はすでに生気を失っており、不気味だと感じる。死体を森に打ち捨てる風習がある村などは、論外だ。死肉を漁るようなまねはしたくない。
──初めての飢餓期は、生贄や死肉で
青年の脳裏に、人になれる魔物からもらった助言が浮かぶ。
(死肉も生贄も嫌なら……あとは小さな子どもを喰うしかないのか)
……それでも、飢餓期を避けて通れた魔物はいないとも聞いている。
(数百年に一度のことだ)
青年はそう
成長過程では分からなかったものの、成体となった青年は、大型の魔物に属していた。大型になるほど、飢餓期の巡りも遅い。この時期に人をひとり食べさえすれば、しばらくは血なまぐさい食事をせずにすむ。
……
飢えず、豊かで、幼子たちも
そっと溜め息を落とす。もう昔ほどには、激しく心は揺さぶられない。それでも、幼少期に感じた寂しさは、青年の胸にずっと
──なぜ、あのうつくしい生き物のように生まれなかったのだろう。
〇
その日は曇天だった。濃い灰色をした重い雲が、地上にのしかかっている。
青年であるところの魔物は森を抜け、丘陵を流れる小川の側、緑の草原のなかに身を隠した。この丘を下れば、小さな集落がある。今日は太陽が望めないため、昼下がりにも関わらず、遠くに見える家々から、橙の灯りがこぼれていた。あたたかな灯りに、魔物は目を細める。
水脈は集落に届いておらず、人間たちはこまめにこの小川に水を汲みにやってくる。こんな悪天候では、水汲みに訪れる者はいないかと思ったが、やがて足音が聞こえてきた。目を凝らすと、ひとつの人影が丘陵を登るすがたが見えた。
その日訪れたのは、
少女は小川の側に腰を下ろすと、
──それでも、食べなければ生きられない。
大きく草の揺れる音が響く。草いきれが生々しく匂い立つ。
一足で川辺まで駆けた魔物の
〇
耳鳴りがうるさい。
足を止めて初めて、それが己の心音だと知る。
森の深くに戻り、ねぐらである洞に少女を横たえて、それから……魔物は途方に暮れた。
眼下には、
けれどそれ以上に、少女に対する
(……これが、人の顔を俺に向けてくるのがいけない)
魔物は爪を伸ばし、まずは少女の顔を潰そうとした。
しかし少女の顔に手をかざした時、手のひらにあたたかな吐息がかかった。思わずびくりと爪を引っこめて、魔物は逃げるように洞を後にする。
森の木々が強い風にあおられ、黒い陰のようにざわめいている。魔物はただ洞から離れたい一心で、やみくもに森のなかを駆けた。
やがて小さな湖のそばに辿りつく。彼は露に濡れた芝草に、なだれるように膝と手を突き、水鏡を覗き込んだ。暗い水面に黒い影が映る。
血のように赤い目。狼に似た
……こんな醜い魔物が、生きるに
魔物は芝草に頭を擦りつけて
その時、魔物の背後で葉擦れの音がした。
振り向くよりも早く、鋭い痛みが魔物の右腕を貫く。視線を下げると、腕から鋭い刃の切っ先が生えているのが見えた。
「……っ!?」
刃が引き抜かれると同時に、赤い血がこぼれる。魔物は雄叫びを上げて
ぐるりとあたりを見回すと、無彩色の外套を羽織った人間が三人、白く輝く武器を構えて、魔物を睨みつけていた。
(
心臓が警鐘を鳴らす。
「僕たちは神の代行人だ! 覚悟しろ、魔物め!」
群れの統率者らしき少年が、高らかに魔物に言い放った。その宣言を皮切りに、残る二人も叫び声を上げながら魔物へと突進する。
身構えようとした刹那、
(ここで殺されれば、楽になれるだろうか)
死へのあまい憧れが脳裏によぎった。
次の瞬間、
魔物を振り仰いだ彼らの目には、涙。そしてその瞳の奥には、憎悪が煮えたぎっている。
強い感情が、魔物の胸を刺し貫いた。
身体のなかで音がして、封じ込めていたものの
……そこから、血で血を洗う
もとのすがたが分からない薄桃色の肉塊、それがあちらこちらに転がるころには、あたりは白い霧ではなく、赤い血煙で覆われていた。
魔物は
ぱたり、と地面に雫が落ちた。
魔物の口から
身体の底から
長年親しんだ洞穴が、霞んだ視界に映る。ふと魔物の身体が傾いだ。
世界が横転する。
立ち上がる気力さえ湧かず、彼はまぶたの重みに任せて、目を閉じた。
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