第四章 擬傷

第29話 咎を負うもの


 物心ついた時には、すでにひとりだった。


 毎日暗い森のなかを跋扈ばっこし、葉や木の実、小動物や魚を摂っては、寝床に持ち帰って食べる日々。成長するにつれて知恵がつき、この森は彼と似た生き物たちが支配しているということを知る。その生き物たちは、主に独りで活動していた。たまに群れるものもいたが、単純な鳴き声で意思の疎通をするだけだった。


 生まれて十の年を経た彼は、一度、森の外に出た。森の外では、なめらかな皮膚を持つ生き物が、大きなねぐらを作って、群れて暮らしていた。その不思議な生き物たちは、彼を見るなり悲鳴を上げて、嫌悪をあらわにした。

 とつぜん鋭いもので突いて追い立てられる。彼はあわてて森のなかへと引き返した。

 突かれた傷が膿んで高熱にうなされたが、彼は洞のなかでうずくまっているあいだじゅう、森の外で見た生き物のことばかり考えていた。


 うつくしい生き物だった。色とりどりの薄物を身にまとい、耳に心地よいささやきを奏でていた。見惚れている間に、嫌われてしまった。自分の姿が醜いせいだろうか。

 ──なぜ、あの生き物のように生まれなかったのだろう。

 彼の赤いまなこから、ほたほたと涙がこぼれた。


 熱が引き、峠を越えて傷が癒える。いつしか彼は、あのなめらかな肌を持つ不思議な生き物に、すがたを変えられるようになっていた。これも森の生き物が往々おうおうにして持つ、奇怪な力のひとつだろうか。

 不思議な生き物のすがたは、森の生き物たちに疎まれ、時に襲われることもあったが、彼は歓喜した。これで不思議な生き物たちに嫌われないだろう。喜び勇んで森の外に出る。


 しかし彼は、すぐに悲鳴を上げて森に引き返すはめになる。なぜならその日は、はじめて森の外に出た日と違って、陽が照っていたのだ。不思議な生き物と同じすがたになってなお、光をいとう元来の習性は変わらなかった。


 はたして彼が森から出るのは、雨や曇り、闇夜の時間帯だけとなる。不思議な生き物のすがたをとると、彼は小さくか弱いものになったが、それが功を奏した。

 不思議な生き物たちは、幼い彼の世話を、かいがいしくやいてくれた。もつれた髪を梳き、汚れた肌をぬぐい、衣服を着せ、あたたかな食事を与え、鳴き声しか発さない彼に、根気強く言葉を教えてくれた。

 彼は不思議な生き物たちの棲み家に通い、乾いた土壌どじょうのように注がれる知識を吸って、自らのものにしていった。

 そうして彼ははじめて、森に住む生き物たちが〝魔物〟不思議な生き物たちが〝人間〟と呼ばれる種族だと知る。




   〇




「それでも人と魔物は、相容あいいれない」


 人間の女のすがたをした魔物が、森のなかで独りごちた。

 彼女は一人ではなかった。すこし離れたところに、彼女と同じように青年へとすがたを変えた魔物がいる。しかし彼女の声音は、青年に話しかけたというより、独白に近い響きがあった。


 白く漂う霧、その湿り気に濡れた森の木々が、風にあおられてざわざわと揺れる。薄暗い世界に揺れる影は、いつでも陰鬱いんうつな気分を誘ってやまない。けれどこの森だけが、魔物たちに許された棲み家だった。

 男は指先でいじっていた葉を捨てて、女に赤い瞳を向ける。


「相容れない、か。たとえばこの国の外はどうだろう。どこか遠いところに、一年中雨が降り続くような土地はないだろうか。地に穴を掘って暮らす人間も、いるかもしれない」


「案外、夢見がちなのね」


 女にからかわれて、青年は鼻白み、ふいと視線を外した。

 幼いころ、人間たちに語ってもらった童話のせいかもしれない。けれど、さきほど口にした話は単なる空想ではなく、どこかにそんな街があったならという願いに近かった。光を怖がらず、人間と生きていける理想郷──


「光を嫌う性質だけが問題ではないのよ」


 彼の考えを見透かしたように、女がつぶやいた。青年は思わず眉をひそめる。


「……じゃあ、何が問題なんだ? 飢餓期か?」


「もちろんそれもあるわ。けれど、一番の問題は……あなた、人間を心から信じられるかしら?」


 会話が途切れる。言葉を返そうと試みたものの、何も反論できない。

 ──彼は人間が好きだった。けれど、信頼できるかと問われれば、答えは否だ。青年が人と同じかたちを取れば、人間は彼にやさしい。けれど魔物のすがたを見せたなら……。

 青年は身を硬くした。幼少期の古傷が痛むような気がした。


「……あんたは、どうなんだ」


 喉の奥に引っかかった答えを口にする代わりに、青年は女に尋ねた。

 外の世界が陽の光にさらされる日、彼はよく人になれる魔物に会いに行き、言葉を交わした。いま会話をしている彼女は、人のすがたのよわいこそ青年とあまり変わらなかったが、知慮ちりょがにじむ物言いからさっするに、彼よりずっと年上なのだろう。

 魔物によっては三百、四百の年月を重ねたものもいる。そんなものたちが、どんな考えを持っているのか、知りたかった。


「人は、好きよ」


 女は端的に答えた。遠くでさざめく木々を見つめながら。


「美しくて、あたたかい。人間が笑うすがたを見ると、胸がとろけるような気持ちになるの。街を訪ねた時、人間が私に笑いかけてくれるたびに嬉しくなる。……でも、人間は本当の私を、好きになってはくれないでしょうね」


 寂しげな微笑みを向けられる。青年は彼女に、何も言えなかった。

 女はふと空を見上げた。糸杉の樹冠に覆われて、かけらほどしかのぞめない空を。


「……はやく陽がかげらないかしら。昨日はヴェルニの街で祝祭があったの。今夜訪ねたら、余った菓子が手に入るかもしれない」


「菓子か……あまり腹に溜まるものじゃないだろう」


「舌には楽しいわ」


 ふふ、と彼女が笑った。

 小さな空が茜色に暮れるころ、青年は女のもとを後にした。

 女は「また近々会いにきなさい。今日ヴェルニで菓子が手に入ったら、あなたの分を取っておいてあげるから」と微笑んだ。


「ねぇ、もしも……」


 数歩離れたところで、声を掛けられる。

 青年が振り返る。彼女はさきほどと変わらない微笑みを浮かべていた。おそらく愉悦からではなく、自分を守るために、作った笑みを。


「もしも、人間が魔物を……ありのままの私を受け入れてくれたなら。愛情を向けてくれたなら、どれだけ嬉しいかしらね。きっと、その人に私の持ちうるすべてを捧げたいと思うに違いないわ」


 ──彼女と交わした言葉は、それが最後だった。

 女は、それきり青年の前に現れることはなかった。最近空腹が顕著けんちょだった彼女のことが気がかりだったが、のちに人里で、ヴェルニの街に人喰いの魔物が出たという噂を聞いて、彼はそれ以上彼女のことを考えるのをやめにした。

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