第28話 いびつな応酬


 頭に響いた痛みに、リィリエの唇からうめき声が漏れた。閉じていたまぶたをそっと開くと、世界のすがたはおぼろだった。けれど何度かまたたくうちに、やがて視界は明瞭になっていく。頭の痛みも、徐々に薄らいでいった。

 身体が氷漬けにされたように冷えている。リィリエは目だけを動かして、あたりを見まわした。


 彼女は湿った土の上に横たわっていた。動かした視線の先には、岩壁がそびえている。どこからか水のしたたる音がした。その音は長い余韻を残して広がっていく。


 右腕はいつの間にか、刃から肉に戻っている。リィリエは冷え固まった五指を地面に突いて、ゆっくりと起き上がった。ふらつく頭をもたげると、ツンとした臭いが鼻孔を突いて、ひたいから何かがずれ落ちた。音のした方へ視線をやると、緑色の汁を吸った濡れ布──薬水くすりみずに浸した布だろうか──が、地面の上に転がっているのが見えた。


「……気がついたか」


 低い声にはっとして、振り返る。

 そこには、岩の上に腰を下ろした青年のすがたがあった。片足を抱えて、赤い瞳でじっとリィリエを見ている。


(──運命の相手コンキリオ!)


 リィリエは素早くその場から後ずさり、身構えた。

 しかし男はその反応に動じずに、のろのろと足を下ろして彼女に近づいた。途中で足を止めて、落ちた濡れ布を拾う。


「それだけ動けるなら大丈夫だな。お前がとつぜん目の前で倒れた時は、驚いたが」


「……ここはどこなの。ジゼルとミアは……」


「ここは森のなかの洞だ。お前が名前を挙げた奴らに関しては知らない」


 男は淡々と言葉を返して、木をくり抜いて作ったらしき碗のなかに、拾った濡れ布をひたした。水音を立てて洗い、硬く絞る。


「……あの大鎌ファルクス。お前、狩人サルタリスか」


 洞に響いた問いかけに、リィリエは身を硬くする。

 鋭いまなざしを送ると、男は嘆息した。


「別にお前をどうこうするつもりはない。俺はただ、お前に聞きたいことがあるだけだ。だからここまで連れてきて、介抱した」


 彼はそこで一度口をつぐんだ。

 男は戸惑うようにまぶたを伏せて、リィリエの胸を指差す。


「……そのロザリオ」


 はっとして視線を下ろす。リィリエの動きに合わせて、胸もとでロザリオが揺れて白くまたたいた。十字架をつかみ、両手で握って隠して、男から遠ざける。


「お前は、そのロザリオの持ち主のリィリエを知っているのか? 彼女がどうなったのか、知りたいんだ」


「……何を言ってるの。わたしがリィリエよ」


 唇を噛んで、彼を睨み上げる。


「わたしの方こそ、あなたに聞きたいことがあるわ。あなた……わたしの運命の相手コンキリオでしょう。わたしを食べようとした魔物……」


 リィリエがぶつけたいきどおりに、男は眉をひそめた。その表情はどこか悲しげで、一瞬たじろいてしまう。


「……俺は、お前など知らない」


 しばらくの沈黙ののち、男は静かにつぶやいた。


「お前はリィリエじゃない。顔も、すがたも、あらゆるものが違う。それに……」


 男の、苦いものを口に含んだかのような表情。

 ──絞り出される声。


「リィリエが生きているはずがない」


 空気が裂かれててつく。氷柱つららのように冷たい輝きを宿したリィリエの大鎌ファルクス、その切っ先が男の喉元に突きつけられる。


「……わたしは生きてる!」


 血を吐くような声が出た。

 何度言葉を交わしても、掛け違う。この男と話していると、リィリエという存在がおぼろになって、この世界から消えてしまうような錯覚に囚われる。

 呼吸が浅くなる。気持ち悪い。寒気がして、頭が痛くて、吐き気がする──


「……お前はリィリエじゃない」


 向けられた刃先に構わず、男はなおもつぶやいた。


「リィリエは、俺に多くのことを教えてくれた。やさしくて気丈な娘だった。彼女と接して、俺ははじめて誰かを信じることができた」


「わたしがすこし手を引けば、あなたの喉は掻き切られる。わたしを殺さないの……?」


 大鎌ファルクスの切っ先を、さらに男の方へと突き出す。男の首の薄皮が切れて、血がにじむ。

 この男に憎しみを向けられて、何も考えずに憎しみを返せたら、どれだけ楽だろう。いっそ、今までの魔物と同じように、殺し合いたかった。狩人サルタリスとその運命の相手コンキリオとして。

 しかし男は、視線を揺らさない。


「誰もあやめないと誓った。俺はもう二度と人を傷つけない」


 遠くで雫が落ちる音が響いて、洞の静寂が際立つ。

 ──リィリエは大鎌ファルクスの切っ先を下げた。

 たとえ彼が魔物で、リィリエの運命の相手コンキリオに違いないとしても、人を傷つけないと語る、無抵抗の相手を殺すなど……できない。武器を腕にもどして、うなだれる。


「……教えて」


 うつむいたまま、ぽつりと言葉を落とす。

 男はもくしたままだ。

 リィリエは顔を上げた。迷子の子どものような弱り切った面持ちのまま、もう一度彼に懇願する。


「教えて。……あなたの知っている、リィリエの話」

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