第27話 満ちた月


 真夜中、夜番にあたっていたリィリエは頭上を仰いだ。

 あたりに漂う霧の、こまやかな粒子のひとつひとつに、白い仄明かりが宿っている。おそらく、満ちた月から分け与えられた光だろう。


 ジゼルが負傷している以上、魔物の襲来があった場合、ひとりで立ち回らなければならないと、リィリエは夜番のはじめ、いつも以上に気を張っていた。しかし満月が起因しているのか、草木が眠るころになっても、あたりの空気は穏やかなままだった。


 視線を下ろして、そっと首に下げたロザリオをたぐる。

 手のなかの十字架が、焚火を照らし返して輝いた。手を傾けるたびに、樫の木と鉛が組み合わさった細工に、橙色の光が躍る。それはいかにもあたたかそうな色合いを発しているけれど……リィリエの心は落ち着かなかった。


「……ひどい顔」


 ぽつりと落ちた囁きに、リィリエは声のした方へ視線をやった。

 目が覚めたのか、眠れないのか……ジゼルが横たわったまま、リィリエを見上げている。


「カーティスの件なら、自分を責める必要はなくてよ。あなたは長引く苦痛を断ち切っただけ。……夜番をわるから、すこし眠りなさい」


 ジゼルの申し出に、リィリエは首を横に振った。


「眠くないの」


「……なら、すこし火から離れて、頭を冷やしてきなさいな」


 体を起こして、火の側に寄りながら、ジゼルが提言する。だまりこんでいたら、彼女の目が鋭くリィリエをとらえた。


「一晩中、そんな思いつめた顔をなさるおつもり?」


 強い言葉に気圧けおされて、追い立てられるように立ち上がる。

 ジゼルに勧められるまま、リィリエは葉導灯ようどうとうを持って、火から離れた。


(……二人からあまり離れずに、すぐに戻れるくらいのところまで)


 リィリエはそう自らをいましめて、歩きはじめる。

 頬に宿った熱のなごりは、すぐに霧に冷やされて落ち着いていく。一足ごとに腐葉土が、みしりと音を立てて圧縮された。その音に、耳に痛いほどの静寂が際立つ。頬に触れる冷気が肌を凍らせる。


 気づけば、天を仰いで歩いていた。どこかに木立の抜け穴はないだろうか、夜空が──満月が臨めないだろうかと。

 しばらく歩いて、開けた場所に出る。木々の隙間から月が覗き見えた。霧の薄絹が幾重にも張られた夜空に、淡い光の輪をつくって浮かぶ満月。その清廉な佇まいを眺めたリィリエは、知らず詰めていた息を吐く。

 やわらかな月光は、どうしてこんなに心にみるのだろう。ジゼルの言う通り、ずいぶんと自分を責めて、思いつめていたのだと分かる。


 長衣の襟元から、ほそい銀の鎖を引き出す。リィリエの体温でぬくもったロザリオは、月明かりの下で白く輝き、静寂を思わせるひやりとした手触りに変わった。

 切ない気持ちが胸をしめつける。

 なぜかは分からない。けれど、禁忌の森の冷気をまとい、月の光を跳ね返すロザリオは、いつにも増して愛おしく見えた。


 ──とつぜん葉擦れの音が響く。その音にリィリエは我に返った。


(ジゼルとミアのところに帰らなくちゃ)


 そう思った矢先、下生えを揺らしたものが、暗がりからすがたを見せた。

 リィリエは息を飲んだ。

 アンゼルムやハイネよりも年若く、けれどリィリエやジゼルよりも年嵩としかさの青年が、そこにいた。


 短い黒髪、均整のとれた体躯。前髪から覗くのは、針で指を突いた時に生まれる血のたまと同じ色をした、鮮やかな赤い瞳。彼の目は、リィリエと出くわした驚きに見開かれてる。

 たとえば彼が、隣国の狩人サルタリスである可能性もあった。けれどリィリエの呼吸は、勝手に浅くなっていく。


 リィリエがロザリオを強く握りこむ。その拍子に十字架が揺れて、月光を浴びて白くまたたいた。


「……そのロザリオ」


 閃いた十字架に視線をやった男が、リィリエの方へ一歩踏み出す。リィリエは彼の動きにあわせて、一歩後ずさった。

 今、感じているのは恐ろしさや不安だけではない。どうしてこんなに落ち着かない気持ちになって、鼓動が速まるのか……自分でも分からない。


「──リィリエ」


 名を呼ばれて、驚きのあまり呼吸が止まる。


「リィリエのロザリオ……」


 男はロザリオを見つめたまま、唇を動かした。

 そこで言葉を切ると、彼はリィリエに視線を向けた。顔を見て、男は眉をそびやかす。


「……お前は、誰だ。なぜリィリエのロザリオを持っている……!」


 身体が凍りつく。

 言葉の意味が汲めない。何のことなのか、尋ねなければ。

 なのに開いた唇は音を生まず、困惑した吐息が漏れるばかりだ。

 男はリィリエに近づいて、肩を強くつかんだ。その触れあったところから、熱が波紋のように広がって──リィリエに天啓が降る。


 ──運命の相手コンキリオ

 彼は、わたしの、運命の相手コンキリオ


 はじめて刃物に触れて痛みを感じた子どものように、知る。触れられた右肩が焼けるように熱くなって、リィリエは大鎌ファルクスとなった右腕を薙いだ。

 閃いた銀の輝きに、男は身を引いて、刃をかわす。

 その拍子に彼の襟もとから躍り出たもの、月光を浴びて白銀に輝くものを目にして、リィリエの動きが止まる。


 男の首には、リィリエと同じロザリオが下がっていた。


 ぐらりと身体がかしぐ。踏みとどまらなければと、強く地に足を突いても、全身の力が抜けていく。目の前が白くなり──意識がふつりと途切れた。

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