第26話 小夜啼鳥と疑心


 彼の懇願に、リィリエは言葉をなくした。

 ……聞き間違いではないだろうか? だってそれは、かろうじて生きているカーティスを殺すということにほかならない。目を見開く彼女を見て、彼は唇を歪ませる。


「……これを、見て」


 カーティスがリィリエの腕のなかで体をじり、血まみれの手で己の外套をめくった。

 ひっ、とリィリエの喉の奥で悲鳴が漏れる。穴が開いた彼の胸の奥、たしかに潰れていたはずの心臓が──白い樹枝のような筋繊維に蔓延はびこられ、補われて、動いている。


「使徒の種子は……最後まで、宿主である、狩人サルタリスを守る」


 醜い臓器を外套で覆って、カーティスは苦しげに言葉を紡いだ。


「けれど、致命傷を……治すことは、できない、んだ。死にかけの、狩人サルタリスは、苦しみながら、ゆっくりと、死が、近づくのを、待たなければ、ならない」


 種子に命を繋がれても、先に精神が壊れてしまう。

 だから、その人がその人であるうちに、せめて尊厳のある死を。

 ──それがアンゼルムの箱庭にひっそりと伝わる、狩人サルタリスの闇掟だという。


「僕も、ジゼルも、そうしてきた。……アラリカの、時には、きっと、ウルツが」


 リィリエの脳裏に、アラリカの葬儀でエミリアに謝罪する、ウルツのすがたがよみがえる。──彼が苦しんでいたのは、アラリカを二度にわたって死に追いやったから。


「ジゼルの騎槍ランスは……砕けてしまった。だから……」


「リィリエ」とカーティスが名を呼んだ。やさしいその響きに、たまらず頭を振って拒む。まなこからあふれた熱の珠が飛び散り、こぼれ雨のように床に散る。


「あんたは、やさしい子だ」


 カーティスの手のひらが、リィリエの濡れた頬をたどる。彼の瞳がやわらかく細められた。「だからこそ」とカーティスは、舌の上でしっかりと言葉をかたち作る。


「……どうか、やすらかな休息を、与えてほしい。ぼくの、救いの御手サルタリス


 ──長い沈黙が落ちた。

 鳥の鳴き声や陽の光を隔てるこの部屋は、すべての命の気配が遠かった。そこにほつりと残されたふたりは、身体はこんなに寄り添っているのに、魂のありかは離れている。

 リィリエはカーティスを見た。若草色の眼球はなめらかに明かりを跳ね返していて、どんな光も届かない。彼の瞳にたゆたう死の影をぬぐいさることは……もはや、誰にもできはしない。


 リィリエはゆっくりと彼を床に横たえた。手のひらで包んだ頭を慎重に下ろし、差しこんでいた手を抜き取る。それからカーティスの灰色の外套をきれいに広げて整えた。


「ミアを……よろしく、頼む」


 カーティスの言葉に深くうなずく。

 すそを払って立ち上がると、彼は「ありがとう」とリィリエに感謝をべた。それからたどたどしい手つきで十字を切って、瞑目めいもくする。


 リィリエが目を閉じて、深く息を吸い、吐いて──目を開ける。

 白い腕が、白銀のやいばへ変わる。仄明かりを集めた武器が、闇のなかでひるがえる。

 武器を天へと振りかざす。半月刀シャムシールよりもなお大きな獲物──リィリエの悲しみを吸って成長した、大鎌ファルクスとなった腕をカーティスに掲げて。

 目から涙があふれた。しかしリィリエはまばたきひとつせず、カーティスの心臓に狙いを定めて、そのまま刃を振り下ろした。


 ……命を絶つ音は、あっけないほど軽かった。

 食卓の上からナイフが落ちて床に突き立ったような。


 リィリエの武器を始点に、床に赤いあたたかな血だまりが広がっていく。

 カーティスは苦悶の声を漏らさず、静かに息を引き取った。




   〇




 足がよろめいて、下生えの上にくずおれる。鋭い葉をもつ森の群生が、リィリエのむきだしの膝に傷を刻む。


「……今日はもう、休みましょう」


 うずくまったままのリィリエの背に、そっとジゼルの声が被さった。


 すっかり陽が落ちた禁忌の森で、狩人サルタリスふたりと少女ひとりが歩みを止める。三人はカーティスとマルギットの遺体を館に置いたまま、アンゼルムの箱庭へと戻るところだった。


「リィリエおねえちゃん、だいじょうぶ……?」


 ミアがリィリエに近づいて、顔を覗き込んでくる。

 ミアを安心させるために微笑みたいのに、顔がこわばって笑えない。


「リィリエは疲れてらっしゃるのよ、ミア。こちらに来て下さる? 包帯をゆるめる介助がほしいわ」


 地面に腰を下ろしたジゼルが騎槍ランスを撫でた。騎槍ランスの添え木にこびりついた土を払うしぐさはどこか緩慢かんまんで、傷ついた肢を突いて歩き続けた疲労が、色濃くにじんでいる。


 どうにか集めたたきぎを燃やして、三人は無言で火を囲う。

 炎にぬくめられたミアはまどろみ、いつしかおだやかな寝息をたてはじめた。その安らかな寝顔を眺めながら、リィリエは膝を抱える。


「召し上がる?」


 ジゼルがおもむろに携帯食を差しだした。リィリエは黙って首を横に振る。


「そう。それなら、食べたくなったら口をつけなさい。ここに置いておくわ」


 布に包んだビスケットをリィリエの側に置いて、ジゼルは自分の食料を咀嚼そしゃくした。


 虫の音と鳥が鳴く声が、糸杉でできた森というまゆのなかに響き渡る。白くたゆたう霧が炎にぬくめられた頬を冷やし、下生えや苔、積もった枯れ葉を黒々と濃く湿らせる。

 その光景は、リィリエの目に心地よかった。お日様のきらきらした日差しや、みずみずしい若葉が陽に透けて輝くさまは……今は、まぶしすぎる。


 目を閉じると、まなうらにカーティスの末期のすがたがよみがえる。たまらなくなってまぶたを上げた。それでも脳裏にあの時の光景が……カーティスの懇願が、マルギットの微笑みが、何度も何度もよみがえる。


 ──ふとリィリエはあることに気づく。


(讃美歌)


 マルギットが最後に響かせた、あの美しい歌声。


(マルギットはあの時……讃美歌を歌っていた……)


 ──〝慈しみ深き、友なる神は、つみとがうれいを、取り去りたもう〟


 ……友なる神。人のあいだでは当たり前にある、神への親しみ、敬愛、おそれ。マルギットは意味を知って、歌っていたのだろうか。彼女は魔物という身でありながら、神をうやまう歌を毎晩ミアに歌い、寝かしつけていたのだろうか。


 リィリエは心の奥底に沈んだ疑問に、そっと手を伸ばす。


(──魔物は……本当にすべて〝神に背いた愚かな存在〟なの?)


 それは、恐ろしい疑念だった。

 ハイネから授けられた教えを……ひいてはこの国に培われてきた、信仰を疑う考えでもある。


 リィリエたちは〝人間〟だ。そのなかには愚かな人も、心根が清い人もいる。

 もしも。もしも、魔物にも、清い心を持つものがいるのだとしたら──

 そして狩人サルタリスが知らないうちに、清い心の持ち主をも、あやめているのだとしたら?


 軽くかぶりを振る。長く細い息を吐く。

 リィリエの視線の先で、整ったジゼルのかんばせに火影が揺れた。

 口にはしないものの、彼女もマルギットという魔物の存在に戸惑っているように見えた。

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