第25話 うつくしい歌と夢を


 狩人サルタリスと、その運命の相手コンキリオ

 互いの心臓へ手を伸ばした二人は──そのまま折り重なるように倒れた。


 激しく扉を叩く音がした。けれどリィリエの耳に音は届かない。彼女はただ目を見開いて、床に広がっていく赤を見ていた。魔物と人間の血が流れて、溶け合い、混ざっていく。


「う……あ……っ」


 カーティスがごぼりと血を吐いた。彼の苦しむ姿を見て、やっと体に血が通う。


「カーティス……!」


 リィリエは彼のもとへと駆け寄った。膝を折り、床に這いつくばったカーティスを抱き起こす。たまらず口から悲鳴が漏れた。

 心臓が潰れている。


「ミア……あぁ……ミア……」


 マルギットは穴の空いた胸を血で濡らしながら、扉へと這っていった。そのさなかに、蜘蛛の下肢が人の足へと変わる。床にこぼれた赤が、マルギットの夜空色の衣服を重く濡らして、漆黒へと染め上げた。


 扉から鍵をいじる音がする。リィリエがやっとそのことに気づいた時、扉が勢いよく開け放たれた。

 手には、鍵束。扉を暴いて室内の光景を目にしたミアの手から、鍵が滑り落ちて、軽い金属音を立てた。

「あぁ」とジゼルが嘆く。


「……………………おにいちゃん……マルギット…………」


 呆けた呼びかけを漏らして、ミアはその場に膝をついた。


「…………あ、あ、ああああっ」


 彼女の唇から嗚咽があふれ出す。

 ミアはもう、分別がつかない子どもではなくなっていた。部屋に満ちた血の色と匂いが、彼女の本能に訴えかける。


「いや、いや……いやああぁっ!」


 ぎゅっと目をつぶって、喉を擦りきらせ、ミアは必死にかぶりを振った。目の前に広がる惨状を拒絶するように膝を寄せ、全身で現実を拒む。


「大丈夫よ」


 やさしい鈴の音が耳をくすぐった。ミアの嗚咽が小さくなる。

 リィリエはカーティスを胸に抱いたまま、ミアを見た。頬に、たおやかな白い手が添えられている。やさしくミアの頬をなぞるのは、マルギットの手のひらだった。


「大丈夫。大丈夫よ。何も怖くないわ。何も恐ろしくないの」


「…………マルギット……」


「ね? ミアとはじめて出会った時に言ったでしょう? 赤いものがたくさん出たひとは、長い眠りにつくだけよ。ミアもいずれ同じように、長い長いおやすみなさいの日がくるわ。そうしたらまた会える」


 マルギットはゆっくりとあまく、ミアにぬくもりを分けるように言葉を紡いだ。頬を何度もやさしく撫でさすって。


「……でも」


 ミアが潤んだまなこを向けた。

 マルギットのほそい指先が、ミアの涙をすくいとる。


「眠ってしまっても、心はいつでもミアの側にいるわ。忘れないで」


 ミアは大きな瞳でマルギットを見つめた。

 彼女の涙をすべてマルギットがぬぐってしばらく、ミアはうなずく。


「いい子ね。大好きよ」


 血濡れのかいなが、小さな体を迎え入れる。ミアもまた、マルギットにぎゅっと抱きつきながら「おうたをうたって」と彼女の耳もとに囁いた。


「いつものおうた。ね、うたって……? マルギットをわすれないように」


 ミアの願いに、魔物はにっこりと笑った。

 すぅと息を吸って、彼女は喉を震わせる。


「慈しみ深き、友なる神は、つみとがうれいを、取り去りたもう……」


 やさしい歌声が、血の匂いで淀んだ部屋に響く。


「こころの嘆き、を……つつまず、述べて…………な、どか、は……おろ……さ……………ぬ、…………負、える……重荷…………を」


 白い手がずるりとミアの頬から落ちた。


「……マルギット?」


 ミアの呼びかけに応える声はない。

 マルギットは、それきりぴくりとも動かなくなった。


「マルギット、ねちゃったの……?」


 ミアはマルギットの側にしゃがみ込み、そっと愛しむように髪を撫でた。


「おやすみなさい……いいゆめを」


 その時、腕にうごめく感触が伝わって、リィリエは我に返った。

 腕のなかに視線を落とす。カーティスの喉から、かすれた声が漏れる。


 ──まだ、生きている!


 名を呼び、身体を揺する。若草色の瞳がリィリエに向けられた。

 リィリエは顔を上げて、すがるような視線をジゼルに送った。ジゼルは唇を引き結び、ゆるりと首を横に振る。


「──ジ、ゼル」


 カーティスが声を絞り出す。


「……わかっていてよ」


 ジゼルはぼろぼろになった騎槍ランスを突いて立ち上がった。

 折れた肢を床にこすりつけて、しかし毅然とした表情のまま、彼女はミアの方へ歩いていく。


「ミア……マルギットを寝室に寝かせましょう。彼女は長い眠りについたのでしょう?」


 声を掛けられたミアは、びくりと身を固めて、恐れの表情を浮かべた。けれどマルギットを気遣うジゼルの言葉を聞いて、ぎこちなくうなずく。

 立ち上がったミアはカーティスを振り返り、揺れる瞳を向けた。


「……おにいちゃん…………おにいちゃんも、ねむっちゃうの……?」


「……そうね。でも心配なくてよ? 入眠歌は、カーティスを抱いているリィリエが歌うわ」


 ジゼルがミアの手を引いた。ミアはしばらくマルギットとカーティスを交互に見ていたが、一度きゅっと唇を噛んで、カーティスに微笑みかけた。


「……おにいちゃん。おにいちゃんも、おやすみなさい。きてくれて、うれしかった」


 カーティスはミアに微笑み返した。痛みのあまりうまく笑えないようだけれど、若草色の瞳は、今までで一番やさしい色をしている。


「ミア。……お前は、自由だ。どうか、誇り高く、羽ばたいて」


 ミアはしばらく黙ってカーティスを見た。鏡合わせのように若草色の瞳をたがいに向ける兄妹は、やがてミアが静かにうなずくことにより、道をたがえる。

 カーティスは微笑みを浮かべる。手のひらから飛び立つ雛を、目で追うような表情で。


 扉が閉じる音が響く。マルギットの亡骸なきがらを引く、ジゼルとミアの足音が遠ざかる。

 血の匂いに満ちた部屋に残されたリィリエは、腕のなかのカーティスの頬を、そっと撫でた。


「……何が望みなの?」


 ぱたり、とリィリエの涙が彼の頬に落ちる。その涙を指で広げて、血で汚れた頬をぬぐって、カーティスの目を見つめる。

 さきほどジゼルとカーティスの間で、言外のやりとりがあったと分かっていた。

 ジゼルはミアをつれて部屋から出た。ならば、残されたリィリエに託されたことが、何かしらあるのだろう。

 末期まつごの願いだ。どんなことでも、叶えてやりたい。


「……あんたは、さとい、な」


 場にそぐわない、いつもと変わらない声音がカーティスの唇から漏れた。リィリエは小さく笑う。

「あなたこそ」と返すと、初めてカーティスに会った時の思い出が、脳裏に鮮やかによみがえった。魔導騎士ホスティアの運命を聞いて取り乱しそうになったリィリエを、冷静にさとしてくれた時のこと。すみれ色の夕闇、野薔薇と庭白百合が白く浮かぶ庭園に、腰を下ろして話したあの日──


「ぼくは……間違って、いた?」


 カーティスの問いかけに、リィリエは静かに首を横に振った。

 彼が間違っていたとは思わない。リィリエだって弟妹が攫われたなら、必死で取り返そうとしたに違いない。

 カーティスがたどたどしく礼を述べた。リィリエは笑って、また首を横に振った。


「……頼みが、あるんだ。……これは、あんたに、しか、頼めない」


「……なぁに?」


 小首を傾げて、彼の言葉の続きをうながす。

 血に濡れたカーティスの唇が震える。


「ぼくを……あんたの剣で、貫いて」

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