第24話 縁者の本懐


 その場にくずおれたジゼルのもとへ、リィリエとカーティスは駆けつけた。美しい直線を描いていた騎槍ランスはひび割れて砕け、折られた槍先が転がっている。

 ジゼルは身悶え、悲痛にねじれた声を漏らした。苦悶のあまり珠の汗が流れ、噛みしめられた唇から血が伝う。


「先ほども言ったように、乱暴はしたくないの。戦いはもうおしまいにして、きちんと話し合いましょう?」


 ジゼルを介抱する二人に、マルギットが囁く。


「何を……! っ、う」


「ほら、無茶をしたら臓腑ぞうふがこぼれてしまう……じっとしていなさい」


 床に膝をついたカーティスに声を掛けるマルギットの声は、慈愛すら感じられるものだ。


(今なら負傷した狩人サルタリスに、とどめを刺すのはたやすいのに)


 心をかすめた想いが、リィリエの唇を開かせる。


「──あなたはなぜ、ミアを望むの」


「リィリエ……!」


 カーティスの批難の声にも瞳を揺らさず、リィリエはその目でまっすぐにマルギットを見た。


「……あら、こちらのお嬢さんはお話をしてくれるのね。嬉しいわ。──そうね、じゃあ昔語りからはじめましょうか。でもまずは、その二人……手当てしてあげて構わないわよ?」


 リィリエは黙ってうなずいた。腰帯から下がった鞄のなかから清潔な綿布を取り出して、カーティスの腹部を縛って止血する。けれど意識が混濁してうなされているジゼルには、どうすればいいのか分からない。

 リィリエは骨折の時の応急処置を真似て、ジゼルの折れた足に、砕けた床の木材を添えて、包帯で固定した。うなされるジゼルの頭を膝に乗せ、熱いひたいに冷たい手をあてがう。

 視線を上げて、マルギットと向かい合う。手当てを黙って見守っていた魔物は、ゆるりと満足げにうなずいた。


「……わたくし、昔から争いごとは嫌いなの。野蛮なことも嫌いよ」


 その一言を皮切りに、マルギットは流暢りゅうちょうに話し始める。


「わたくしはこれまで、木の実や魚、草や葉をんで生きてきた。人を食べるなんて、恐ろしいもの。魔物が人を食べるところだって、とても見ていられなかった。……けれどいつからか、何を食べてもお腹がすいて、お腹がすいて仕方がなくなった」


 ──飢餓期だ。

 リィリエは頭のなかで、ハイネから聞いた言葉を反復する。


「そのころにはもう人のかたちをとれたから、わたくしは人里に下りて色々なものを食べてみた。お菓子、卵、家畜の肉……。けれどどれも駄目だった。空腹は収まらなかった。そうしているうちに、いつしか人を見るたびに、美味しそうだと感じてしまって──それでも、それは駄目だと自分に言い聞かせて、我慢してきたわ。人のかたちをとって話すうちに、わたくしは人を好きになっていたから」


 マルギットの目が遠い情景を映す。


「たくさん我慢したわ。空腹を我慢して、我慢して……そうして気を違えてしまった。正気に戻ったわたくしは、血の海のなかに立っていて、一組の夫婦の臓物と、幼い男の子の手首を口にしていた」


 マルギットに視線を向けられたカーティスが、歯を食いしばってうめいた。


「怖かったわ。そんなむごい状況のなかにいること、それを作り出したのが、わたくしだということが。だから部屋の扉が開いて、ミアが顔を覗かせた時……恐れたの。嫌悪、批難、そういったものをぶつけられると思って。わたくしはすぐさまミアの目と口を塞ぎ、あの子をさらって逃げ出した。人々が騒ぎを聞きつける前に、遠くへ逃げて……この森までミアを連れ去って、そこで彼女も殺さなければならないと思ったの」


 けれど──と口にして、マルギットは唇を震わせた。

 彼女のまなこが潤む。

 禁忌の森に着いてミアを解放した時、ミアは無垢な瞳をマルギットに向けて、こう言ったのだという。


〝あかいの、いたい……?〟


「それはあの子の両親と兄の返り血だった。わたくしは怪我ひとつしていなかった。それなのに、あの子は心配そうに、わたくしの手を握った……!」


 小さな手のひらから伝わるぬくみに、マルギットはミアの前で膝を折って泣いた。ミアは戸惑いながらマルギットの頭を撫でつづけた。ミアが涙をこぼした時、よく母親がそうしていたのだろう。あの惨状を理解するには──ミアは幼すぎたのだ。


「わたくしはミアを殺せなかった。ミアは日を追うごとに、わたくしになついてくれるようになった。少しずつあの子が大きくなって、成長して、喋る言葉が増えていくのが、いつからかとても嬉しくて……」


 愛おしさに目を細めるマルギットの表情を見て、リィリエの脳裏に母親の顔が浮かぶ。

 マルギットは狩人サルタリスたちに、懇願の表情を向けた。


「……わたくしの罪は認めるわ。でも、ミアはもうわたくしの一部なの。わたくしから、あの子を取り上げないで。あの子から、もう一人の母親を奪わないで」


 このままそっとしておいて。

 それが、マルギットの望みだった。


「──ふざけるな、あんたは魔物だ! ミアの母親どころか、ミアの両親を奪ったかたきだ! また空腹を感じたら、あんたはきっとミアを食べる……!」


 カーティスが罵声をぶつける。

 しかしマルギットは、それをまっすぐな面持ちで受け止めた。


「あの子を食べるくらいなら、死を選ぶわ」


 ──魔物が人を愛している。

 リィリエは愕然がくぜんとした。

 いままで魔物を殺めてこれたのは、心を持たない残忍な生き物だと信じていたからだ。けれど、マルギットは? 彼女を殺せるだろうか? 胸に疑念が沸き上がる。


 人は肉を食べる。それが仔羊や小鳥であったと知りながら。

 息の根を止めて肉にする。憎いわけじゃない。食べないと生きられないから。

 けれど、家族である動物を食べるなど、考えたこともない。

 すると──マルギットとわたし、、、、、、、、、どこがどう違う、、、、、、、


 リィリエを現実に引き戻したのは、袖の引きつれる感覚だった。

 視線を下げると、意識を取り戻したジゼルが苦しげな息を吐きながら、リィリエのそでを引いていた。


「……すきをついて、カーティスをつれてこの館から出なさい」


 ──そうだ。ジゼルもカーティスも怪我をして、勝利への道筋が暗いものになった今、一度箱庭に退却するべきだ。けれど。


「ジゼルは……?」


 リィリエは瞳を揺らして彼女の肢を見た。圧迫されてぼろぼろに砕けてしまった肢。肉のかたちに戻したら、どんな状態におちいるのだろう。

 リィリエの不安をよそに、ジゼルは取り澄ましてみせる。


「私なら、一人でなんとかのがれてみせてよ? あの箱庭で、アンゼルムさまに次いで優秀な狩人サルタリスだもの」


 ──強がりだ。リィリエは唇を噛む。さきほどまで意識が混濁こんだくしていた彼女が、砕けた肢で魔物の手の届かないところに逃げるなど、できるわけがない。


「……逃げない」


 カーティスが声を絞り出す。彼は血のにじむ腹を手で圧迫しながら、それでも鋭いまなざしをマルギットに注ぐ。


「いま運命の相手コンキリオを取り逃がしてしまったら……ミアには二度と会えない……!」


 彼の言うとおり、いま退避してしまったら、二度と狩人サルタリスに見つからない森の奥深くへと、魔物はすがたをくらましてしまうだろう。いとしいミアをつれて。

 カーティスはいまこの時、ミアを取り戻す好機を、逃すわけにはいかないと考えている。けれど──


 小さな物音に思考を遮られた。リィリエがはっとしてそちらに視線をやると、扉から再度音がした。控えめに扉を叩く音。


「おにいちゃん? マルギット? なにがあったの?」


 ミアだ。一階に下りていたものの激しい物音に不安を感じて、部屋を訪ねてきたのだろう。鍵で固定された取っ手が揺れて、ガチャガチャと音がする。

「ここをあけて」とかぼそい声がした。


「ねぇ、ここにいるんでしょう? ミアのおこえがきこえる?」


「……大丈夫よミア。わたくしがすこし粗相そそうをしてしまっただけ。いい子だから、もうすこし下で待っていてくれる?」


 その声は、なめらかな女性のものだった。

 いつの間にか、マルギットが人のすがたになっている。


「マルギット……でも…………」


「ね? ミアはきちんとお留守番ができる、いい子でしょう?」


 頬にかかった銀の髪を顔の輪郭に沿わせたまま、マルギットはやわらかく小首をかしげた。白い喉があらわになる。いつもミアにそうして言い聞かせていたのだろう、慈愛に満ちたやさしい笑みを浮かべている。


 扉の前から立ち去ろうとしないミアに、マルギットは根気よく「ねぇ? ミア」と語りかけた。しかし、彼女が再度ミアに言葉をかけようとした時──リィリエのもとから一羽の小鳥がはばたいた。


「騙されるな……! 逃げろ、ミア!」


 リィリエとジゼルが止めることはおろか、何か言うよりも早く、カーティスは鉤爪クローへと変わった手をマルギットへと繰り出した。


 やわらかな肉が裂ける音がした。次いで、何かがこぼれる音がした。

 それを最後に、部屋は無音に包まれる。


「──おにいちゃん? マルギット?」


 とつぜん訪れた静寂に、ミアの声がうつろに響く。

 誰も、彼女の問いかけに答えられなかった。

 カーティスの鉤爪クローはマルギットの胸を突き破り、反射的に魔物のすがたになったマルギットの節足もまた、カーティスの胸を貫いていた。

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