第20話 雨
意識が浮かぶと同時に、雨の音が聞こえた。
うっすらと目を開ける。左肩に乗った重みに気づいて、リィリエはゆっくりと視線を動かした。ジゼルの
リィリエに寄りかかって眠るジゼルを起こさないよう、そっと身じろぎして、彼女の肩から落ちた毛布を被せなおす。あどけない寝顔に、ふとジゼルが自分と変わらない年頃の少女だと思い出した。
凝り固まった手足をそっと伸ばして、採光窓を眺める。今日は陽の光も薄い。雨なら演習のたぐいは中止だろうか。反省室からは、今日出れるという話だったけれど。
やがてジゼルも目を覚まし、ばつの悪そうな顔をして、リィリエに「おはよう」と朝の挨拶をくれた。嬉しくなって「おはよう」とにこやかに返す。
「……遅いわね」
目覚めからしばらく経って、ジゼルがぽつりとこぼした。リィリエも「そうね」と同意する。昨日はきっかり三度、いつも食事を摂る時間に料理を運んでくれたカーティスが、しかし今朝はいくら待ってもすがたを見せない。
「まさか忘れているんじゃないでしょうね、私たちのこと」
「……そんなことは……ない、と思うわ。きっと」
「リィリエはご存じないから。カーティスはしっかりしてそうで、時々あの見た目通りにとんでもない失念をなさるのよ」
「そうなの?」
扉の外から足音が聞こえた。ジゼルはそっと人差し指を唇に当てて、リィリエに目配せする。今話したことは内緒──そう示されて、くすくすと笑いながらリィリエはうなずいた。
靴音が近づいてくる。彼があわてて食事を運んでいるすがたが浮かぶ。そんなに走らなくても大丈夫なのに……。
カーティスが扉を開けて姿を見せた。
「……何かあって?」
カーティスは手ぶらで、息を切らしていて、顔色がひどく悪かった。
「──アンゼルムの許可は取ったから。二人ともすぐにここから出て、黒装束に着替えて」
それだけ言って、カーティスは足早に部屋を後にした。分厚い扉がギィギィと
「黒装束……?」
訳がわからないままリィリエが
とつぜんジゼルに手を引かれた。
「いったん自室に戻りましょう。黒装束は衣装棚に収めてあるわ」
「ジゼル、いったい何があったの? 黒装束ってなんのこと?」
リィリエが覗き込んだ、ジゼルの瞳は揺れていた。
ジゼルが顔をしかめる。
「──葬儀の喪服のことよ。箱庭の子どもが亡くなられたの」
〇
灰色の
庭先に集った子どもたちは、冷えた濃霧と
「──彼らは大きな
赤毛から垂れる雫を払おうともせず、アンゼルムが
「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません」
箱庭の子どもたちの目の前に、小さな
突然のできごとを耳にした面々に、現実を突きつけるかのように。
「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです……」
朗読を終えたアンゼルムが十字を切る。彼は簡易祭壇に置かれた棺に近づき、蓋をずらして、胸に差していた献花をそなえた。それから子どもらの側へ行き、彼らの背を順に押して、最後の別れを告げるように
「アラリカおねえちゃん……」
エミリアが花を手にしたまま、棺の側で立ち尽くす。彼女の大きな瞳から、ぽろりと熱の雫がこぼれ落ちる。
「いや、いやよ……ウェルダおねえちゃんも、てんにめされたばかりじゃない。どうしてみんな、エミリアをおいていくの」
重く濡れた巻き毛を頬に張りつかせたまま、エミリアは大きくかぶりをふった。
──〝エミリアは最近ずっと塞ぎ込んでいたんだけど、リィリエがこの館に来てくれて、ちょっと気持ちが上向いたかな〟
──〝一班には欠員が出たばかりなんだ。武器をいちはやく発動しできた、君への期待を込めて……一班への入班を命じるね〟
リィリエの脳裏に、アラリカとアンゼルムの台詞がよみがえっては、
落ち込んでいたエミリア。一班の欠員。ウェルダという少女。
リィリエがこの箱庭に来る前に奏でられた物語……。
「……エミリア」
彼女の背後に控えていたウルツが、エミリアの側に腰を下ろす。
彼は武骨な指で、小さなエミリアの涙をすくいとる。
「すまない……俺のせいだ。俺がアラリカに魔物の深追いを許した。はやく
──アラリカは魔物と相打った。逃げた小型の魔物を追った先で、大型の魔物に迎え撃たれたのだという。
最初にアンゼルムに報告を受けた時の衝撃が、内に反響して離れない。リィリエは立ち尽くしたまま動けずに、ただ目の前で寄り添うエミリアとウルツを見た。
「本当にすまなかった……!」
ウルツが声を振り絞る。
エミリアは声を上げて泣いた。アラリカの名を何度も呼んで、静かに涙を流すウルツにしがみついて。
呆然としているうちに献花は進み、アンゼルムに背を押されて我に返った時には、リィリエは最後の一人になっていた。ぬかるむ地面を蹴って、アラリカの側へと歩み寄る。
濡れた黒装束のすそが
──ほんとうは、近づいて棺のなかを見たくない。
想いとは裏腹に、リィリエは棺の前にたどり着く。
棺のなかに、アラリカが横たわっている。体には白い布が被せられており、首から上だけが覗いていた。亜麻色のおさげ、リィリエにたくさんの笑顔を向けてくれた唇。たくさんの花に囲まれて、まるで眠るように……。
けれど目の前のアラリカからは、命の光も、吐息の音も、胸がふくらむ身じろぎさえも感じられない。すべて奪われたのだ。箱庭のまわりに黒々と広がる禁忌の森、そのなかで息をひそめる魔物に。
アラリカのやわらかな頬のすぐ側に、リィリエは花をそなえた。雨雫が落ちて、白い花弁に弾けて、清らな香が匂い立つ。
それは庭白百合。純白の野薔薇とともに、緑の庭園で育んできた花。きっと野薔薇は、生まれ故郷へ帰る
献花が終わり、棺の蓋が閉じられる。アンゼルムと少年たちの手で棺は持ち上げられ、高い木組みの上に安置される。
木組みに火が放たれる。湿気でくすぶって、もうもうと黒い煙が上がる。
リィリエがふるえる手をぎゅっと握りしめていたら、ふいにやわらかな冷たさが触れた。
「……狩りの途中で息絶えた
炎にまかれるアラリカをまっすぐに見つめながら、ジゼルがつぶやいた。ほそい指先がリィリエの右手を握る。
支えてくれたと思った。けれど触れた手はあまりに華奢で頼りなく、支えないと、と思う。雨で冷えた不自由な右手で、なんとかジゼルの手を握りかえす。
手をつないだ二人の目の前で、炎は勢いを増していく。棺を舐めつくし、黒い
「人の焼ける匂いよ。嫌と言うほど嗅いできたわ。何回も、何十回も」
ジゼルの声に、高い鐘の音が重なった。旋律に寄り添われ、黒い煙となったアラリカが天へと昇っていく。リィリエは静かに空を仰いだ。
リィリエの頬に、しずかに一粒の雫が伝って落ちた。
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