第19話 彼女たちの物語


 薄い陽の光で目が覚める。一瞬、いま自分がどこにいるのか分からなくて、リィリエは戸惑ったけれど、夜着ではなくワンピースのままの自分とジゼルのすがたに、ここが反省室であると思い出す。

 硬い寝具のせいか、身体の節々がきしんだ。火の気のない部屋で吐く息は白く、思わずアンゼルムから借りた肩掛けをたぐり寄せて、頭から被る。


 朝食を届けてくれたのはカーティスだった。彼は片手にひとつずつ銀のトレイを持って、扉を足で押し開け、二人の顔を順にみて嘆息する。


「まったく……あんたたち、ちゃんと話して仲直りできたのか」


「朝食、いただくわ。お世話様」


 涼しい顔で会話を受け流すジゼルに、カーティスは眠たげなまぶたをさらに落として、半目になった。


「同じ班のあんたたちが不仲だと、ぼくが困るんだけど。このままじゃ一班は魔物狩りに行けない」


「必然的に運命の相手コンキリオ狩りが遅れてしまう、魔物にさらわれた妹を助けたいのに──でしょう? カーティスは妹のことばかり考えてらっしゃるから」


 挑発的なジゼルの物言いに、リィリエは思わずカーティスの顔を見る。唇を引き結んだ彼の瞳が細められた。

 一触即発といった雰囲気に、リィリエはおろおろと二人を交互に眺めていたが、やがてカーティスがひとつ大きなため息をつくことで、張りつめた空気がやわらいだ。


「……否定はしないよ。僕はミアを助けるために狩人サルタリスになった。でも、あんただってもといた場所に帰るために、ここに来たんだろ? ジゼル」


 彼がそっと落としたつぶやきに、今度はジゼルが言葉に詰まる。


「……明日の朝になっても、こんなギスギスした空気のままだったら、アンゼルムに言いつけるからな」


 カーティスはそう言い残して部屋を出た。音を立てて扉が閉まる。

 ジゼルはどこかねたような表情で、だまってトレイをたぐり寄せた。


 膝の上にトレイを載せて食事をとっていると、始業の鐘が鳴って、採光窓の外からはしゃぎ声が聞こえ始めた。訓練の日の子どもたちの声だろうか。


 朝食を食べ終えてしばらく、また鐘が鳴らされた。しかし今度は、いつもの単調な鐘の音ではなかった。高く、低く、荘厳な旋律を奏でている。連続して打ち鳴らされる組み鐘カリヨンの音色を聞くのは初めてで、リィリエは戸惑い、視線を揺らした。


「──狩りの日」


「え……?」


組み鐘カリヨンの音は、森へと向かう狩人サルタリスを送り出すためのもの。今日はたしか、三班の実戦だったかしら」


 ジゼルの説明を聞いて、リィリエは採光窓を見やり、思わずぎゅっとロザリオを握った。美しいはずの音色が、途端に恐ろしいと感じてしまう。


「……大型の魔物や運命の相手コンキリオと戦う話は出てないわ。食用肉の狩りを含めた実践演習に過ぎないから、安心なさいな。これくらいで不安がっていては、神経がもたなくてよ」


 ジゼルの物言いは冷たいままだったが、気がかりだったことが取り除かれて、リィリエは少しだけ緊張をほどいて、うなずいた。


(あ……ちゃんと、言葉にしないと)


 いつもの癖を、少しずつでも変えないと。そう思ってジゼルに向きなおる。


「ありがとう」


 はにかみながら礼を言うと──ジゼルはもともと大きな目をさらに見開いて、長いまつげを音がしそうなほどにしばたかせた。唇を結んだかと思うと、ふいと視線をそらされる。


 昼食を運んできたのもカーティスだった。機嫌が直ったのか、ジゼルは軽口をたたきながら彼に近況を聞きだした。カーティスもまた、小競り合いにも似た言葉を返しつつ、ジゼルの質問に答えていく。

 そのやりとりは、同じ班として行動を共にしてきた、息の合ったやりとりだった。

 いつかわたしも、あの輪のなかに入れたら──。リィリエは黙って二人の話に耳を傾けながら、そんな思いを芽吹かせる。


 夕刻。橙に溶けた低い陽が、反省室にも差しこむ。家事や勉強に従事じゅうじせず、何もしなくていいということは、思っていたより手持ちぶさたで、もどかしい。時間は遅々として進まず、ジゼルもひまを持て余したのか、軽く手足をぶらつかせていた。やがてそのしぐさは柔軟体操に変わり、彼女は壁に手をあて、ゆっくりと左足を前方に持ち上げる。

 やわらかく開いたジゼルのももが、彼女の腹部についた。ほぼ地面と垂直になるかたちに足を持ち上げたところで、彼女は腿に腕を回して、腹と腿を添わせたまま、上半身をけ反らせた。足の角度がさらに開く。ジゼルのすがたを眺めていたリィリエの唇から、感嘆の溜め息が漏れる。ゆうべの眩惑的な光景が、リィリエの脳裏によみがえった。


「とても体がやわらかいのね。昨日の舞いも、すごく素敵だった……あれは何かの踊りなの?」


 体操をひととおり終えたジゼルに尋ねると、彼女はいぶかしげに眉をひそめた。


「……あなた、バレエをご存知ないの?」


「え……えっと……物語のなかで出てきて、神父さまに言葉の意味を尋ねたことはあるわ。……じゃあ、あれがバレエなの……?」


 リィリエのたどたどしい言葉を聞いて、ジゼルが大きく嘆息する。


「ご、ごめんなさい……わたし……辺境の生まれで、村から出たことがないから、あまりものを知らなくて」


「あれはバレエのステップ。体操の域に入る、安易あんいなものに過ぎなくてよ。毎日動かさないと、体が硬くなってしまうから。劇場で演じるバレエは、もっと長く、もっと美しく舞うのだと、そう覚えておきなさいな。髪を小さく結い上げて、綺麗にお化粧をして、裾の広がった衣装をまとって、楽団の音楽に合わせて──」


 ジゼルの声がどこか陶酔とうすいしたものになり、彼女の視線が宙をさまよった。

 小さな拍子を刻む音が聞こえる。ジゼルが後ろ手で壁を弾いていることに、リィリエは気づいた。ジゼルの頭のなかでは、きっとバレエのための音楽が鳴っているに違いない。


「……私、サリカのバレエ劇団で、一番の踊り手プリンシパルだったのよ」


 ジゼルがぼんやりと言葉をこぼす。

 リィリエに向かって話しているというよりも、ほとんど独白に近い声で。


「私は貴族の家に生を受けた。善良なお父様とお母様、優秀なお兄様にはぐくまれて、大きなお屋敷で何不自由なく育った。お母様は、私に教養を身につけさせるために、何人もの家庭教師チューターを屋敷に招いてくださった。バレエもそのひとつで、物心ついた時にはもう、踊ることは食事をとることと同じくらい、当たり前になっていた……」


 何かの物語をそらんじているようなジゼルの台詞に、黙って耳を傾ける。

 そういえば日々の雑務にかまけてばかりで、リィリエはここにいる狩人サルタリスの過去をなにも知らない。アンゼルムの事情も、カーティスの目的も、ジゼルの生い立ちも……この数日で、初めて耳にする話ばかりだ。


「バレエ劇団に招かれて、そのなかで一番の踊り手プリンシパルになるのは、私にとってそんなに難しいことではなかった。舞台や踊りをご覧になった大人たちが、惜しみなく拍手や喝采かっさいを送ってくださって……でも、そんな日々は長くは続かなかった。乗っていた馬車が、飢餓期の魔物に襲われて……私は左足を喰いちぎられた」


 ジゼルは白い指を左のあしにそえて、そっと撫でさすった。まだぎこちなくしか動かない右手が痛んだような感覚がして、リィリエは顔をしかめる。

 ……あんなに自在に動いていたジゼルの左足は、使徒の種子でおぎなった肢だった。武器を発動させるために血のにじむ努力をしたジゼルが、義肢をここまで自由に動かせるようになるまでに感じた痛みは……リィリエの、この幻肢痛の何倍だろう。


「で、でも……あんなに綺麗に舞えるのだもの。運命の相手コンキリオを倒せたら、きっともとの生活に戻れるわ」


運命の相手コンキリオなら、もう狩っていてよ」


 青い瞳に射すくめられる。やわらかさすら感じる微笑みを浮かべているのに、目には底冷えするような光が宿っていて、リィリエは背すじを震わせた。


運命の相手コンキリオを狩ったあと、私はサリカのお屋敷に帰ったわ。お母様は私をねぎらってくださった。これまでの顛末てんまつを語り終えた私に、お母様は困ったようなまなざしを向けて、こうおっしゃられたの。〝狩人サルタリスは魔物を倒すためにいるのでしょう? ならあなたの居場所はここではないわ。箱庭に戻って、あなたは引き続き役割に従事なさい〟と……」


 そうして今、ジゼルは箱庭にいるのだ。


「──時間が必要なのよ」


 ジゼルはぽつりと言葉を落とした。日暮れの静寂に音の波紋が広がる。


「私は呼び戻されるのを待つわ。……アンゼルムさまは定期的に、サリカへ狩人サルタリスの動向についての報告をする。幼い狩人サルタリスを教え導いて、多くの魔物を狩って、王都に私の名がとどろいたら──騎士になって勲章を受けたお兄様のように、きっとお母様も私を認めてくださる。お屋敷に戻るよう声を掛けてくださる。その時に、きちんともとの生活に戻れるように、両親を落胆らくたんさせないように……私はバレエの練習を欠かさない」


 だから、最初から武器が発動できるリィリエを目のかたきにしていたのだ。

 リィリエはジゼルを見つめた。何を言えばいいのか分からなかった。でも、ここまで身の上を語ってくれた彼女に対して、沈黙に甘えたくなかった。


「──あなたの踊るすがた、とても、とても美しかったわ。ほんとうよ」


 ずっと前からあたためていた気持ちが、唇から外へとすべり落ちる。


「あなたのこと、一目見た時から、とても素敵だと思った」


 リィリエは懸命に言葉を重ねる。この気持ちが、少しでもジゼルに伝わるように。リィリエの向ける敬愛が、ほんのわずかでも彼女のなぐさめになるように。


「……当たり前のことをおっしゃらないで」


 ジゼルがふいと視線を外した。


 明かりが途絶える。陽が落ちきったのだ。うす暗がりのなかにしばらく立ちすくんでいたジゼルは、リィリエの側に歩み寄って、その隣に腰掛けた。二人の少女を乗せた寝台が音を立ててきしむ。思わずジゼルの方を見ると、彼女は青い瞳でじっとリィリエを見つめていた。


「……今度は……あなたが物語ってくださる? 辺境に生まれたリィリエの話」

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